★2011.6.26
上を向いて歩こう......歩くために
この度の東北地方太平洋沖地震により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますと共に、被害に遭われた皆様とそのご家族の方々に心よりお
見舞い申し上げます。一日も早い復旧復興がなされますコトをお祈り申し上げております。
アウトロー店主 山本裕之
こういう非常事態時ってのは普段観るコトのできない人間の本質的な部分がよく観える。
特に被災地から少し離れた関西ではできるコトが限られているぶん顕著であった。いち早く動き出したヒト、募金するコトで使命感を果たした気分になったヒ
ト、同情して自粛したヒト、いろいろ理由をつけて何事もなかったかのように振る舞ったヒト、不安からかweb上でデマかどうかも精査せず情報を回し続けた
ヒト、政府や電力会社批判し続けたヒト、批判などせずに優しく見守って一致団結助け合おうと言ったヒト、普段エラそうに理想を語ってるのにこういう時行動
が伴わないヒトなど。全体的に観ると不安で萎縮してしまったヒトが多かったようだ。
勿論、千差万別それでいいのだ。けれど、僕自身は自分がこれから生きていくうえでどういうヒトと歩んでいくべきかは観えた気がする。
今回、震災自体は自然による不幸な出来事ではあったが、原発事故は"人災"であった。
東京電力がいかにヒドい会社で、民主党がいかにヒドい政党で、この国に利権がいかに多くて、後悔しても始まらないが東電を何の根拠もなく信頼し民主党に何
の精査もせず投票した(僕はしてない)我々国民がいかに無知だったかが露呈した、まさに人災だ。
そのせいで、福島のたくさんの方々が避難を余儀なくされ、福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故発生現場でたくさんの所員たちや下請け会社の社員たちや日
雇い労働者たちに環境のヒドい中カネだけ払ってまさに命懸けで作業させている。
これは、東電、政府、そして我々国民のせい以外なにものでもない。なにが仲良く一致団結して助け合おうだ、なにが日本は略奪もなく列をなして順番を守り助
け合う素晴らしい共同体だ、と、僕は憤る。同意があるとしても誰かを犠牲にするコトは功利主義的で共同体としてハッピーなカタチじゃない、先の戦争を思い
起こすほどだ、これらはすべて我々の無関心やリテラシーのなさがまねいているのだ。誰かの犠牲の上になされる共生なんておかしい。この国の共同体はもはや
ファンタジーだよ。
さて、長らくお休みをいただいたこのコラムですが、僕自身はなにも書いていなかったワケではない。アイデンティティをテーマにかれこれ20稿ほど推敲して
いるのがひとつある(深すぎて手に追えん現状)し、その間に起こる様々な事象に対する思いは@baroutlaws71
on twitterでタイムリーに発信してきた(twilogで
過去のも観れます)ので、特にこのコラムで厭がられながら急いで伝える必要がなかっただけです。
でもこんな酷い事態になってしまったので、改めて世の中を総括して今
一度"タチイチ"を確認しとく必要がある、と思い緊急で書いています。テーマが社会的なので1年半推敲してきたコトに繋がるハズなので長く
なりそうですが今回もお付き合いのほどを。
"タチイチ"(立ち位置,スタンス、立場や役職のコトではない)とかいうと意味わからんかも知れんけど、こう考えて欲しい。
みんな何かしらのやりたいコトが少なからずある、ハズ。まず、そのやりたいコトが、ゴール。
では、ゴールに向かうためにどうしたら良いかと考える。
まずそのとき、自分がドコにいるのかが本来だいじになる。
例えば、N.Y.に行きたいとする。N.Y.に行くとしてもヴァンクーバーから行くのと大阪から行くのとでは何かするという点で方向性としてはさほどの違
いはないが方法やプロセスは全く違う、かかる時間や費用も違う。自分はドコにいるのだ?
結構、みんな目的地はハッキリしている場合が多いのにタチイチは考えない。
それは、自分と言う個体が今いる場所がタチイチだと思い込んでいるからだ。間違いではないだろう、が、今いる場所ってどれくらい理解しているのか?
では、地図も持たずココが広い荒野ならどうだろう?360°地平線の荒野。自分の立っている位置が荒野のドコかわからない。この広い荒野では我々は自由
だ。好き勝手やろうと思えばやれるし楽しもうと思えば楽しめる。
その荒野の中からどうやって目的地に向かうか。
目的がある状況下でも、地図も道具も何も持たない自分という個体は無力だ。では、まず、どうやって自分の居場所を知ることができるだろ
う...........
それには勿論、目的地、つまり、何がしたいか、何をするのか、と
いう目的(テロス)や理想や理念もいる、あと、教育や共同体(社会など)によって培われた知識がいる、そして現状を把握するためにも活きた情報がいる。
荒野の真ん中、東へ向かいたい、そこには家族や友人が待っている、やりたいコトがある。
太陽はどちらから昇ってくる?あの星座は何でどの方向か?と、空を見上げて得た情報を知識を使って精査するコトで今立っている位置をある程度観測できる
(意外と自分が思ってた位置とは違う場合が出てくる)、これが "タチイチ"
の確認だ(ハイデガーみたいやな,実存)。そうして始めてそこへ向かうために何が必要か考えるコトができる、着替えがいるなとかこの靴では歩けないな、と
か。
ここで気をつけないといけないのが、そもそも情報が誤っていたり教わってきたコトが間違っている場合だ。タチイチどころか目的地も違ってくる可能性が生じ
る、結構タイヘンなコトだ。
でも、実はこの世の中でそんなコトはよくある。ホントよくあるんだ。
そんな時は迅速にやり直せば良い。タチイチがある程度わかっていればスタートラインに戻りやすい。例えスタートラインすら違っていたとしてももう一度正し
い知識と活きた情報を得て考慮すればさほど苦しまなくても良い。この一連のプロセスで十分対処できる。
しかしまぁ、今、自分のこのタチイチも確認せず理想や理念を語る人間の多いコト多いコト。
この1年半このコラムが滞った要因のひとつに昨年の今頃NHKで放映した"ハーバード白熱教室"という番組がある。話題になったのでご覧になった方も多い
だろう。僕もセレンディピティで初回から観てしまった。ハーバード大学のマイケルサンデル教授の政治哲学の講義をハーバード史上初めて映像化したという秀
逸な番組だ。観てない方、哲学に興味のある方はこの講義がテキスト化されベストセラーになった本もあるし動画サイトにもあるようなのでチェックしてみて欲
しい。
超手短かに紹介がてら昨今少しはやりの政治哲学とやらにアプローチしてみましょう。
1971年にハーバードの哲学者ジョンロールズが"正義論"(プラトン、アリストテレス以降この時まで正義という概念は意外と論じられてこなかった)を論
じてから、米国ではリベラルとコミュニタリアンの論争が盛んになった。
ロールズは、リベラル、つまり、『公正(立場の入れ替えの可能性があ
るという社会の
どこに生まれても自分は耐えられるかというコト)と、最小不幸と機会の
平等に価値をおく自由』を中心に正義に向かってアプローチする。
それに対し、コミュニタリアン、つまり『共同体や慣習に価値をおく保守』を
重要視するサンデルたち新進気鋭の哲学者(テイラー,ウォルツァー,マッキンタ
イア)たちは、ロールズのリベラルな正義を批判した。
正義をいう時、正義の対象は自由な自己をイメージするが、自己は共同体から何らかの影響を受けているので、必ずしも公正な自由とは言えないのではないか、
また、自由だけで公共の善が成り立つか、自由とはドコまで自由なのか、正義とは誰の正義なのか、公共と個人の共存、自由と平等の共存は可能か、カンタンに
言うとそんなカンジだ。
余談だが、サンデルらロールズを批判する哲学者たちは、自分たちのコトをコミュニタリアンだとは明言しない(そうする必要がないという方もいる)。
サンデルの講義も自身のコトには触れず学生の議論を誘導していくトコロは卑怯なやり方だとも思えるが、学生の哲学への可能性を引き出している点では、現代
の教師のエゴの強い授業と比較しても素晴らしい手法である。
サンデルが日本に興味を示すのは、アジアは元来共同体の思想が理解されているから狩猟民族的な欧米の学生に宗教抜きの共同体思想をはじめから教えるより議
論が進化しやすいからだろうと推測できる。ともかく他の3人はともかくサンデル自身は講義や著書を観る限りリベラルを否定していない。
近年、リベラルとコミュニタリアンは対立構図ではなくなり(元々争う必要もないんだが)、現代の社会状況を鑑みると、昔ながらの共同体を求める保守層、
と、入れ替え不可能(不可換)な文化以外はグロバライゼーションを容認する層、の綱引き、つまり、コミュニティを主体に考えるか、コミュニティをだいじにしつつも個人の自由を尊重しようとする
共同体(コミュニタリア二ズム)を否定しないリベラルを重要とするか、そしてそれらに加えてそこから派生したリバタリアン(後述)、と、相
互対立ではなく混じりあってバランスを模索する構図になっている、そんなカンジだ。
日本でよくいう"個人主義"という他人の自由を侵さない限りは最大限の自由を認めるべきであるとする功利主義的なリベラリストをリバタリアンというが、彼
らですら自分は社会のドコかに帰属しているという点に於いてコミュニタリアンを完全否定はできない。
数年前のリバタリアンの中でも最も先鋭的な無政府資本主義者(アナルコキャピタリスト,アナーキー)に近い堀江貴文氏と旧い体質の組織(共同体主義もしく
は保守)の対立構図はこの辺りの範疇か。対立している時点でいかに日本が政治哲学的に遅れているかよくわかる。
余談だが、先日の堀江氏の収監出頭時の会見は、謝罪も含め非常にコミュニタリアン的だった。みんな(特に彼に依存してるヒトたち)堀江リテラシーがないの
かも知れないね。まぁ、多くの宗教創始者が一度権力に抑えつけられて復活しイダイナチカラを得たように2年数ヶ月後に彼は神になるのであろう。リテラシー
を持って観ていないとね。
現代の思想は、社会主義、共産主義を別にすると、リベラル、コミュニタリアン、リバタリアンは、明確にカテゴライズ(区分け)できるものではなくなってき
つつある。
特に日本において米国みたいに(一概ではないが)、カソリックなどキリスト教右派,共同体,保守,小さな政府=共和党、マイノリティ,リベラル,大きな政
府=民主党、という区別しやすい構図もない(州政治はもっと明確)。
日本の民主党はリベラルといいつつ社会主義に近いし、自民党は今や社会民主主義的共同体主義ノスタルジーもしくは思い込み保守だし、共産党はいつも絵空事
だし、社民党は思考停止だし、公明党は政治哲学はなくただの宗教なので論外(こんな滅茶苦茶な社会に於いては心のよりどころとして宗教的なモンは機能する
かも知れないが排他性が強いため政治哲学にはなりえない、宗教は補完の役割を担って欲しいモンだ)、と、日本の政党は言ってるコトとやってるコトが支離滅
裂で政治哲学がないに等しい(制度の問題かも)。
個人的にはデギンズの提唱している"第3の道"がいいと思ってるが、今現在英国で頓挫しはじめてるみたいだしなぁ.... でも、日本の現状より余程マシ
かもな。嗚呼みんなの党もなぁ.....ちゃんと勉強しようよ。
まぁ政治家のみなさんもスタートライン(タチイチ)が不明瞭なのにゴールばっか競い合ってる。利権が絡む(しがらみ)からだろうが意味わからん。
このポイントを理解せず我々が感情的に政治や社会の出来事を観ると間違った道に進んでしまう。
戦争が起こるのもココがポイント。国民ひとりひとりがちゃんと自分のタチイチ考えないと"信じてる"というだけで思考停止集団に勝手にミスリードされちゃ
う。リテラシーが必要だ。
ね、マニュフェストといったゴールばかりでなく"タチイチ"の確認が必要なのわかっていただけます?
因みに今日に至るまで日本の論壇で"正義"の議論はほとんどなされてこなかったのだからこうなるのも必然か(サンデル人気もね)。現在の日本の政治や司法
(特に検察、正義の定義も曖昧なまま正義を振りかざすとは.....)や企業体(ビジネスはグローバルな側面もあるので一概ではないが)の荒廃はこういう
理由でろう。.......結局日本は、思い込みの正義なんだ。
この20年の思考停止がこの今の日本の荒廃を生んでいる(まさに思考停止だったな)。
日本の社会は、勢いがあった頃にできあがってしまったファンタジーを捨てきれず、未だにそれを正義とする旧いヒトたちが進歩を妨げている。
旧いヒトたち
(僕もギリギリ含まるんだろうが)のほとんどがタチイチを"思い込み"で決めつけグローバライゼーションの波に根拠のない手段で抗おうとし結果アノミー
(混沌無規範状態)になっている。
その証拠にエラそうなコト言ってる世代のヒトたちのクリエイティブがないせいで、人、物、金、全てでこの20年滞っている(どころか後退してる)でしょ?
それが、現実です。
結局実力もないのに世界の流れでタイミングよく世界一になったはいいが自立してないため自らコントロールできなくなって巨大なバブルを生みバブルがはじけ
ると国債を発行して問題を未来に先送り。
今の団塊の世代後半組から僕より少し上の世代は、若い頃にいざなぎや高度成長の名残りからハイテク景気の恩恵を受け、プラザ合意とともにバブル景気で楽し
い時代を過ごし、バブルの崩壊(冷戦終焉の影響を見誤り下落)で本来ならジリ貧で破綻のハズなのに負の清算をせず自分たちの生活水準は下げたくないので未
来に借金した(96年頃から15年ほどで1000兆円!!)、そのくせ未だに貯蓄高が高い(日本の貯蓄の8割以上は50歳以上が囲い込み一人当たりの額面
でも世界トップ)。
そして、閉塞感を打開する気もないその世代のヒトたちの中には、無責任にもミナミノ
シマセミリタイアを計画するかビジネス好きなヒトは培ったコネで中国
でひと儲け(僕の知る限り10人以上いらっしゃる、みな同じカンジ)、後進に何らか正の遺産を引き継ぐコトもほとんどないしそんな発想もな
い。
そんな話をその世代のヒトたちにぶつけても、俺たちはこんな新しいビジネスモデル作ったしお前等に教えてもやった(自負)、自分の理論を努力でここまで
やってきた(精神論)、俺たちもバブル崩壊以降は不景気で苦労してるし収入も減ったが仲間とみんなでがんばっている(言い訳)、など根拠のない正論を言う
始末。
まぁなんせ僕らの世代まではなんとかやれるが、僕らの子どもの世代は少子化で数も少ない(自分たちの快楽のために子ども作ってないオジサン世代のヒト多い
しね....せめて震災孤児を育ててあげて欲しいよ)し、ひとりの負担も大きいのでタイヘンだ(何もしてもらってないのに阿呆な年寄りの面倒見なあか
ん)。尚且つ今回の震災の賠償絡みで国債発行なんて現役世代の無責任甚だしい。
僕らの子どもの世代が、今のオジサンたちの年齢になった時、今の彼らと同じお気楽な人生は到底ありえない。すべて彼らのツケだ。
まぁ、なのに社会を見渡すと平然とエラそうに、今時の若いヤツはつかえない(否定)などと、OJTや自己啓発やセミナーやコンサルティングやらなんちゃら
スクールやらでパターナリズムな頭ごなしの"教育"してくれる。
こうして思考停止のファンタジーオジサンたちに若い芽は毒され最後は摘まれていく。悲惨だ。
こんなコトが20年近くも続いてる。今必要なのは、オジサンの栄光再
来ではなくクリエイティブ、マイナーチェンジよりフルモデルチェンジ、保身より再構築(リストラクチュアリング)、リノベーションよりイノベーションだろ
うに。
話を戻す。サンデルの講義を聴いて僕は、もう一度、自分のタチイチを確認しようと昨年夏から膨大な書物を紐解いた。
もう一度、と言ったのは若かりし頃読書家だった僕は、高校生の頃にたまたまカントの『判断力批判』を読み哲学に少し触れそれからハタチくらいの時に哲学を
わかりやすく説明してくれながら物語が進む『ソフィーの世界』によって哲学にハマった経緯がありその後カナダに渡り"世界"というモンを肌でカンジたコト
によりある程度世の中の仕組みやガイドラインみたいなモンは把握できてきてたしその中で自分がどういう人間なのかも少しだがわかってきてた(ホント世界に
は出るもんだよ)。でも、それから
20年近く経過し日々の生活に埋没して、ある種の哲学的なコトは何も考えずに生きていた。唯一このコラムで少しづつ検証していた程度だ。
昨夏から哲学書を読み返し自分を少し洗い直してみて少し大人になった実感が持てた気がする。自分が当時のタチイチから紆余曲折ありながらも明確に世界を観
て立っているコトがわかった。この20年僕のスタンスは成熟分を除いてほとんど変わらないコトもわかった(微妙に今と違うトコもあるが...)。自分で言
うのもなんだがバランスがいい(何も事は成していないが....)と思う。それは、僕が数年前にこのHPで自分を検証しているコラム ★2008.7.17
(E)na (対極にあるものと美意識、羞恥心を忘れるコトについて) や ★2009.9.27 亀が泳ぐ街 (ダブルスタンダードの世界に在って)
の辺りでハッキリと伺い知れる。勉強不足で言葉は稚拙だが迷いも表れていてだいたい自己分析できている。
そこに僕のタチイチがある。
また余談だが、日本にはよくわからない"論壇"というモンがあって同じ著者の本の解釈をいろんな角度から批判しあうコトも多いようなので、哲学や社会学や
経済学の翻訳書(原書は言葉は簡単なんだけど理解しにくいからなぁ)を読む時は気をつけた方が良いかも。特に解説書(噛み砕いたカンジのモン)はまったく
お薦めしない。もし時間があるなら全て網羅しないと著者の真意が理解できない可能性がある。なので、その辺りをwebの中から引っ張りだすのも気をつけな
いと非常に偏ったモンしか得られない。外国書リテラシーやね。webリテラシーも。
僕は近年twitter等で、『今(向かっている)の
小さな社会大きな政府 はダメで 大きな社会
小さな政府、多文化主義ではなく文化多元主義、が今必要なのではないのか 可換可能なモノはいらん、可換不可能なモノを伝統として保守すべき、可換可能部
でグローバル化や和平交渉を 』と、提案している(人生の後半戦はとりあえずこんなカンジではじめようと思ってます)。
(文化面は次の機会にして)大きな政府とは、チョ〜カンタンにいうと社会主義的なカンジ。現在の民主党政権もほぼこのタチイチ(よくみんな投票したよ
ね)、まぁ日本人が憧れる北欧型もこのくくりだからねぇ、理想なんやね。でも実際、少子高齢化で資源の少ない借金大国の日本でこれからも大きい政府でやっ
ていって国民がハッピーになるとは思えない。クリエイティブもできないのに理想主義がすぎるしグローバルな感覚がなさすぎる(マニュフェスト詐欺っていっ
ても騙される方もねぇ....)。
かたや小さな政府は、最低限の国土安全保障とか経済の土台づくり社会福利厚生の基礎だけは国がやり、あとは近接の自治体(地方自治)もしくは個人でという
カンジ。なので社会の補完が必要だ
と僕は思うが。
僕が小さな政府やベーシックインカムや教育バウチャーというとすぐ知らないヒトからRTされリバタリアンや新自由主義やネオリベと決めつけられる(小泉竹
中改革は小さな政府小さな社会なので改革の方向はいいが補う仕組みがないからあかんかった)が、僕がいう大きな社会小さな政府は、どちらかというとコミュ
ニタリアン寄りで、補完としての大きな社会、つまり道州制など地方分権みたく一定規模の地方自治体で地域にそぐった自治行政や新しいご近所コミュニティが
必要。政府が小さいと格差が拡がるコトが危惧されるのでベーシックインカムやロールズのいう公正な機会の均等(失敗しても周りの理解や協力で再チャレン
ジ)を促進する社会であるコトも重要だ。
まぁ要は国には期待せんからいらんコトはせんといてくれ、各自でその都度助け合ってやってくわってカンジかな。流れの速いグローバル化に抗うための仕組み
でもある。
ただ実は、今の日本はいびつな構造で、諸外国と比較しても国民ひとりが納めてる税金も少ない方だし現実格差もほとんどない、すでに結構小さい政府でもあ
る、それでいて国民皆健康保険や年金は運用の失敗こそあれ仕組みはほぼ成功していた、日本は社会民主主義をバブル期あたりまでホントはウマく形成してい
た、ハズだった、が、先ほどのオジサン世代の放蕩とバブルのコントロールでバランスを著しく失った。そこをどう転換していくかがという点に於いて福祉国家
や大きな政府はもう幻想なのである。もうノスタルジーはやめよう。
今回のテーマを進めるにあたって、もう一度僕のスタンス(タチイチ=実存かな?)を示しておこう。(自分の話ばかり恐縮だがモノサシにしてみてね)
僕は今までのコラムで検証してきたとおりコミュニタリアンに近いし憧れるが、ほぼリベラル(自称ほぼリベ)である。
何もかもをルールで規制(息苦しい)しなければならない民度の下がったこの国を憂うが、リバタリアンのような国家より個人という感覚は薄いし、コミュニタ
リア二ズム的な大きな社会も必要だと考える。
国家の必要性は文化的側面からは保守的だが、それは三島由紀夫の文化防衛論に賛同するもので、文化的天皇制を重要視するし日本の風土や芸術や言語などの他
と入れ替えが不可能な部分の保守というカンジで、大昔のというかヨーロッパの古典的自由主義に近いかも。
けど、国境などはどっかの学者がいってたが"ソフトボーダー"で良いと思ってる(世界で国境が明確な国の方が少ないんだから、お互い主張はしてもいいが利
権は共有すればいいんだ)点や、共同体ノスタルジーなオジサン世代と若い衆との世代間ギャップの認識や、グローバル経済へのアプローチではリバタリアンを
支持する。
あと、コミュニタリア二ズムはリベラルを前提に重要だが、これだけグローバル化が進み、昔ながらの共同体の消失(空洞化した共同体ばかり)が自明な今、ノ
スタルジーに"一致団結"や"みんな仲良し(仲間意識)"を掲げ、"がんばろう日本"的コミュニティ形成(教育)は糞だと僕はカンジている。そんなコトを
言わない方が自由度が高くクリエイティブしやすい、帰結そういえばみんな仲良かったよね、くらいがハッピーなコミュニティなんじゃないかしら。仮に仲良く
ない実務集団に在ったとしても別の帰属で、逃げ場所でもいいから"居場所"さえ(それがバーであってもいい)あればいいと思う
し.............
自律した個人が、複数のコミュニティに帰属して、活きた情報を得て、正義(共同体的?)に基づき自己決定で生きていく自由を求める、そんなカンジです(自
称ほぼリベ)。
ただ、自分でも育ちが悪いなぁと思うのは、僕が自由がすぎるのか遊びがすぎるのか、超越した宗教チックな感覚でリベラルすら幻想かも自由なんてないかも、
とも思ってる。そんなアイロニーで生きている点は少し特殊やろね。パンクなのか歪んでいるのかもしかして神なのか?!....やれやれ。
さて、周りを見渡してみよう。
僕のカンジる限り、弊店に来られるお客様方はクリエイティブな仕事の方々が多いわりに意外とコミュニタリアンが多い、っていうかほとんど。それに気づいて
ないヒト多いし、自分はリベラルだ、なんて思い込んでるヒト(僕の影響?ウソです)がほとんど。(日本でリベラル言うヒトの多くは社会民主主義的でリベラ
ルとは少しズレてる)
このコラムを読んでるアナタはきっとコミュニタリアンです。
まぁ、日本人は世界を観なくてもまだコミュニティの中で生きていけるからね。共同体の意義も周知だしね、そのタチイチさえ認識できていれば素晴らしいコト
であとはグローバル化にどう対処するかだけ構築できれば西洋哲学と東洋哲学の融合的独自のコミュニタニアリズムを成形できるかもしれない、現にサンデルは
ちょっと日本人を羨ましがっとるようにも見えるもんね。東洋のコミュニタリアニズムは元々良質なんだ。
でもこの時代、共同体を重要視するのは弊店のお客さんやサンデルに限らずかもしれない。
景気のいい時代は自由をたくさん求めるが、社会が不安定で金回りが悪いと安心感を求めて保守的になるのは当然だ。
今社会が求められてるのは、安心、安全、安定で、創造的破壊、進歩、革新ではない。
その証拠に現在世界的に政権を握るのは、保守政党か独裁的政治(この世に完璧に民の幸福を考える独裁者がいれば今の時代良い国かも知れないがあり得たとし
ても代替わりしたらあかんようになるしその点で独裁政治には限界があり政治哲学になりえない)だ。
オモシロいコトにというか奇妙なコトにスペインやギリシャなどの中道左派すら保守に負けて米国と日本だけが左派リベラル政党(日本民主党はリベラルでもな
いが一応)なのだ、まぁ当たり前にどちらもウマくいってないが、ははは。
そう考えると、今の世の中、自由なんて言ってられなくなってきて遊びが減っていってるのも理解できるんだよなぁ.......
一致団結、みんな仲良し、がんばろう日本やもんなぁ.......あ、それ自体はいいコトなんですよ、(それを前提にされると糞だとは思うけど)否定はし
てませんよ。
ただ、冒頭でも申し上げたように、この国の共同体は空洞化しているコトは自明。ひとりひとりは良質のコミュニタリアン気質なのにだ。その再帰の方法論が、
ノスタルジーファンタジーオジサンたちによる、仲良し教育や自己啓発や組合や協会やがんばろう!じゃ宗教の方がよほどマシじゃないかと思っちゃう。
みんな変にグローバル(オジサン舶来ブランド好きやもんね)やリバタリアン(若い衆ホリエモン好きやもんね)に憧れて、自身のコミュニタリアンなタチイチ
を認めないからアノミーになる。アンタはコミュニタリアンなんだよ。
なんせ、それでも僕は保守すぎる閉塞はよくないとカンジるのでやはり遊びを推奨し続けるワケなんですが、とほほ。つまり、僕はリベラルな自由な要素を、
HPやtwitter等で批判されるコトで、モノサシにしてもらうコトで、捨て石になるコトで、みなさんのコミュニタリア二ズムを刺激しようと試みてるん
だよね、うんうん(ウソです)。
さぁそれではいよいよ本題。えっ!まだ本題じゃなかったの?と思ってるでしょうが、タチイチを確認したら、このHPのいつもの役割は、あとはどうしたら
ハッピーになれるか、でしょ?っというワケで、コミュニタリアンが多いコトを前提に書いてくので耳が痛い方もおられると思いますがご容赦あれ。
今回の震災や原発事故で、我々がいかにエゴで無関心で無知なのかを改めて知ったと思う(ソクラテスの無知の知か)。
原発リテラシー、メディアリテラシーが足らなかった。
今回何度も登場しているこの『リテラシー』とは、元来、読み書きする能力や情報機器を使いこなす能力を意味していた(日本では未だにそう)のだが、
1989
年にカナダのオンタリオ州で世界ではじめて公教育に教育機関や組織などの後ろ盾のない教師たちによる地道な市民レベルの運動の"メディアリテラシー"
をカリキュラムに取り入れたコトにより世界的にも『リテラシー』の意義が改めて評価され社会での重要性が増すコトとなった。スローフード運動なども同じ。
そのメディアリテラシーとは、メディアからの情報が日常生活に浸透し我々のモノの見方や考え方から文化に至るまで大きく影響するようになっている中、メ
ディアの情報を単に受容するのではなく、メディアの性質を理解し、意図を解釈し、情報の重要度を判断し、批判的に読み解き、また、メディアを使ってコミュ
ニケーションを創り出していくための主体的な能力のコトをいう。
こと移民国家カナダに於いては、広大な土地に点在し様々な文化を持つマイノリティの集合体ともいえるカナダ国民のコミュニケーションを円滑にするためのテ
クノロジーとしてケーブルテレビやインターネットなど世界で最も普及している国のひとつであるため、まったく性質の違う文化でありながら、地続きの強力な
隣国アメリカのマスメディアが深く入り込んでいる現状に鑑みると、権力的アメリカ文化の浸食に敏感にならざるを得ない。つまりカナダでのメディアリテラ
シーの確立は、ある種、成熟しきっていない共同体の空洞化を防ぐためナショナルアイデンティティを保守するコトでもあったのだろう。必然であった。
残念ながら、日本は共同体がしっかりしていたコトもあってか(良くも悪くも補完しあえるからね)、メディアリテラシーも含めリテラシー教育がない、否、正
確には、今は、ない。実は、今回調べてみたら、かつてこの国にもリテラシー教育があった、ビックリ。
1952年サンフランシスコ講和条約が発効するまで文部省の仮検定教科書には『国語』という教科はなく、『文学』と『言語』という2科目があった。
カンタンにいうと前者が "文学を鑑賞理解する教育" で、後者が "背景まで考えて読み解くリテラシー教育" である。
ところが、1948年以降にソ連の核実験の成功から占領政策が変わっていく過程で、アメリカは日本を共産主義への防波堤にする方向に転換し各方面でリベラ
ルな政策を打ち止めにする。日本人に世界感覚的思考能力が付きすぎては困るというワケだ。憲法同様に思考停止アメリカ追従への布石がココにある。
性質的に温和な日本国民は戦争に負けた劣等感と軍隊への嫌悪から何も考えず受け入れてしまった。そして、それを利用された。当時ソコを理解していた日本人
は吉田茂と白州次郎くらいなもんだろうが、当時の彼らはそれどころではなかったろう。
とにかくそういう経緯で本検定では『言語』が消え、鑑賞教育だけ残る。『国語=文学』はこのときから。占領政策の転換だけでなくメディアリテラシー教育
(加英ではメディアエデュケーション)の力量をもった教員が当時いなかったため『国語=文学』だけを残すという政治性に敏感に反応できなかった。敗戦国で
思考停止中の教員には政治リテラシーがないから必然か......
なので今日我々日本人はリテラシー感覚が乏しい。原発リテラシーも当然及ばない。
実は、僕はカナダ文化の影響か、このコラムを書き始めた頃からメディアリテラシーのない日本社会を危惧していて、"活きた情報"というわかりやすいコトバ
で発信して喚起を促してきた。最近ではtwitterでの僕のニュースの見方を示すコトでその役割をしている、僕はカントのいう定言命法で書くため
(140字やし)誤解されるコトも多いが.........、多少なりともみんな、自身のメディアリテラシーの不足をカンジてくれていると思う。そういう
意味でア
ウトローの存在によってみなさんのモノゴトに対するアプローチやライフスタイルが変化してるんではないでしょうか?少しでもハッピーになってくれていたら
幸いだ。
また、僕を誤解し嫌悪し僕から逃げていくヒトたちに、そこんとこを伝えられないチカラのなさは痛感しているが、それでも僕の発信してきたモノは彼らの
人生の何らかのスパイスにはなっているであろうと自負しております。アウトローから離れてもハッピーで生きていって欲しいモンだね。
僕の話ばかりで恐縮だが、僕はバーを経営してるからか育ちが悪いからかリベラルだからか懐疑的だからかアイロニストだからか皆さんより比較的リテラシーの
ある方だと思う。だからといって何かいいコトがあるワケでもなかったし原発みたく関心の薄いモンに対しては無知なのであまりエラそうに言えるワケではない
が、ここで、少しでも皆さんのお役に立てればとリテラシーのコツみたいなモンをお伝えしよう。
★まずずっと言い続けてますが、活きた情報を得よう。
webやメディアだけに頼らずホンモノの情報を得る。遊びの場は自分の帰属以外の情報を得る恰好の場所です。
★その活きた情報を精査しよう。
それが何を意味しているか。ホンモノの情報か、誰発信か、利権が絡んでないか、プロパガンダでないか、どれくらい重要か。
★精査した情報を自分のタチイチと照らし合わせてみて自分の中に落とし込もう。
自分にとってその情報は必要か、ハッピーか、どういう材料になるか。タチイチが曖昧だとミスリードされます。
★そこからいくつかの選択肢を見いだそう。
これには自分が何をして行くかという目的(テロス)がいるが、ソコへ向かうための手段方法をいくつか自主的に創り出す。クリエイティブな作業。
★その選択肢の中から覚悟して自己決定しよう。
自己決定というとリベラル的だがコミュニティ的判断もあるコトを承知であえていうが、覚悟して自分の責任に於いて選択する作業が重要である。僕は普段から
善も悪も包括して生きているつもりだが、例えば、上記のプロセスでの自己決定で、仮に悪事を働くなら僕は認める(罪や罰や責任は別の問題である)、が、し
かし、思考停止で欲望のままに悪事を働くコトは絶対許さない。まぁ、ちゃんとしたプロセス踏まえれば悪事を犯すコトもないだろうが..........
このプロセスを踏まえているコトを尊重するのが現代のリベラルなんじゃないかとも思ってる。
僕が "一般常識"
といわれるモンを批判してよくみんなに驚かれるのは、こうしたプロセスなく行動できるほど我々の今いる共同体を僕は信用できないと思っているからであり、
逆にそういった空洞化した共同体の雰囲気により何かが決定されるのを危惧している。
しかし共同体を無視しての自己決定もありえないコトも自明。そこで共同体の"意気"をふまえたうえでのリベラルな自己決定を重要視する........ん
なカンジ。ハンナアーレントも確かそういうのがだいじっていってたと思う。
というコトで、複雑だけどこういう順序が今の社会には必要だと思う。
以上のコトを普段から意識して行動するとリテラシーが養われる。性善説的に考えるより、性悪説的に懐疑的に考えると(変な言い回しだが)ストレスも軽減さ
れて真理が観えてくる。原発リテラシーもメディアリテラシーも歴史リテラシーも相撲リテラシーもバーリテラシーも、今、アナタに観えているすべての文脈、
論理、解釈を疑い、間引いて考えて、アナタ自身が批判(判断)するコトがポイント。
そこで、いくつか世情からリテラシーを再考してみよう。
●原発リテラシー
原発事故発生当初東電や政府を批判するなと言っていたヒトたちや、福島原発に取材にも行かず政府や東電や保安院の発表を流し続けたマスメディアや、それを
信じて不安になって買い占めや自粛したヒトたち、勿論、原発の安全性を何の担保もなく鵜呑みにし利権をつくらせた国民たち、すべてに上記のプロセスがドコ
か欠如している。我々にリテラシー教育がない証であろう。今は戒めるしかない。
それと、再生可能エネルギー等、反原発のリテラシーもあるのか?放射能の不安からのムーブメントではないか?....よく観ないとね。
●歴史リテラシー
歴史というのは元来勝者が残した記録がほとんどだ。幸い日本は敗戦国ではあるものの、島国で侵略もなくほぼ文化的には植民地化されていない(自ずから欧米
化はしたが)ので、万葉集やその時代時代の手紙など文化的なモンが膨大に残っている。戦国時代ですら負けた側のコトもわかるくらいだし、史実が結構明瞭な
世界では希有な国だ。
なので逆に、リテラシーがさほど必要なかったのも事実。
僕は幕末史好きで坂本龍馬好きなので必然的に司馬史観支持者である。しかし、司馬遼太郎の隠れた人物の才能を見つけ出し英雄として描くトコロはリスペクト
しているが、そのせいで少し偏りが出てしまう辺りはリテラシーが必要だ(歴史リテラシーと司馬遼太郎リテラシー)。なんやかんやいうて誰も見てないし英雄
なんてそんなたくさんおらんやろしたまたまそこにおっただけってコトもあるやろしだいぶ割引は必要やってコトです。
因みに余談の余談だが、僕の幕末史観では明治維新は革命ではないし維新というのもちょっとな、という気がしている。徳川幕府はペリーが来んでもあの財政で
は先行き短かったろうし産業革命の波はその辺りでいつ来てもおかしくなかったしあの時の日本のアノミーさ加減は幕府以外誰がやっても難しかったろう、たま
たま外圧があってたまたま徳川でたまたま外交失敗してたまたま政権交代なカンジかね。
まぁいつの時代にもある話で違うのは刀を捨てて近代化を目指したから文化が急激に変わったくらい、確かに、明治維新が無血であったコトは世界史上類を観な
いが、それもたまたまかも。南州翁が徳川家絶滅を望んでいたのも事実やしね。坂本龍馬も司馬のおかげで英雄視されているがエゴが強くリバタリアン的要素が
あった点ではさほどでもないかな。
ただひとつ、後の大久保が導いた日本帝国の末路を思えば、高杉と龍馬と南州翁は少し早すぎた。船中八策など高杉や龍馬のヴィジョンは現代社会のグローバラ
イゼーションに抗えるカタチで、南州翁が観ていた世界は日本の国益国民益を生み尚且つ欧米露ら列強にアジアを植民地にさせないですむ広大な思想(当時のア
ジア主義、今の東アジア共同体、けして同化ではないですよ)だったワケで、彼らが生きていれば、というか龍馬があと5年でも生きていれば大久保と南州翁の
確執がなくなり南州翁は死なないで済み、日本はいやアジアは、列強の押さえ込みに苦しむコトなくアジア間の戦争もなくもっとハッピーになれただろう。
●相撲リテラシー
相撲を題材にした落語の演目、『半分垢』『阿武松』『花筏』『佐野山(谷風の人情相撲)』など、どれも人情話だが八百長っぽい話だ。八百長というと聞こえ
が悪いが、人の気持ちをくんだ人情相撲である。
元々相撲は国技(国技館って名付けた時から国技となった変な話)なんかではないし、神事(五穀豊穣祈願とか奉納とか)と娯楽を兼ね備えた"興行"である。
だからガチンコという言葉もあるワケで、全てが真剣勝負ならガチンコという必要
もない。若貴時代からガチンコが王道になった気がするがハッキリ言ってそんなんすらどうでもいい。僕は時代の流れなので八百長をやめようとするのは仕方な
いと思ってい
るが、よい人情相撲もまた文化なので今回の社会の風潮をリテラシーのなさとして捉えている、何のための潔癖さかわからない。公営賭博の競馬,競輪,競艇,
オートレース、または、オリンピックや国際試合のあるスポーツならルールの遵守は当然だが、相撲で人情相撲を非難するコトに意味はあるのだろうか?普段
ちゃんと大相撲観たコトないヤツらが!
もし、相撲を厳しいルールの元でやりたいなら、貴乃花親方の提言する部屋のクラブチーム化をして柔道みたく階級制にしてジャンジャン外国人入れてスポン
サー付けて他のスポーツ同様リーグ戦でもやればいいと思う。
それと同時に文化的に気楽に観たいなら、日本人だけで今まで通りの大相撲やって協会は宗教法人にすれば良い、もちろん、人情相撲も咎めない。解雇力士も戻
してやれば良い(彼らだけが罰を受けるのはいかにも不公正だ)。
とりあえず今の腐った相撲協会は解体して新たにスポーツ団体と宗教法人に分ければいい、っていうか、貴乃花親方はヴィジョンがあるんならJリーグみたいな
組織を発起すればいいのに、もしくは朝青龍とか曙とか貴闘力とかなんやったらA猪木と興行的にスポンサー募って『新日本スモウレスリング』でもやればいい
のに
ね、年末盛り上がるんちゃうんっ?!
●バーリテラシー
これだけ夜遊びが衰弱してくるとバー遊びなんて言葉も死語に近い。
今の外食産業にはもう豊かさはないに等しい。不景気が続きでこづかいやりくり上司が部下に奢れなくなり、引きこもり部下も酒を嫌悪し、デフレで250円で
晩飯食えて一品280円客単価1500円の居酒屋が集客する、酒メーカーがこぞって缶入りハイボール販売して家呑みを推奨する。
やれやれ。粋でいなせな酒呑みが育つ環境ではない。
もちろん、バー業界も悪い。バーテンダーの集まる団体は自分たちでカクテルの技術(シェークやフルーツの切り方...まで)を競い合いそれらをお客さんに
売りつけるがさほどおいしくもないため流行もせず僕らみたいな街場にはそのカクテルはここ数年流通してこない、それどころか、どっかの安居酒屋の安モン
フードコーディネーターの提案するオリジナルカクテルが評判になる始末。挙げ句、缶入りのカクテルのプロデュースまで.....片腹痛い。現実、僕も勉強
がてらバーによく行くがエゴが強すぎて辟易とするうえ、なぜかそう技術も高くないし、カクテル以外の知識も乏しく、オモロいキャラもいない、なんだったら
色売りしとるから始末に負えん、権威は何処。
僕は、バーがとても重要な場所だと今でも尚信じているが、正直なところ限界すらカンジる今日この頃だ。消費者のバーに対するリテラシーも酒メーカーや酒屋
のリテラシーも業界のリテラシーもなくなってきている。
バーリテラシーという単語は少しおかしいかも知れない。しかし、バーこそリテラシーを培える数少ない場所であるコトは僕が確信を持って断言する。なので、
みなさん少しでいいのでバーのコトを考えてみてやってください。
●集団リテラシー
僕は組織というのは長く続くほど腐っていくモンだと思っている。
なので、何らかのテロス(目的)があってヒトが集まるのは素晴らしいコトだが、流動的社会に於いてその役割を終えたらすぐ解散するのが望ましい。期間限定
だ。その組織が終わってもやってるコトのニーズがあればまた誰かがそれをやるだろうし、下手に組織体を延命させたりリノベーションすら懐疑的でせっかく築
き上げたからと引き継いだりする発想が利権を生んだりしてクリエイティブを妨げてきたコトを思えば、時限的な組織の方が健全ではないか。
連合や各種組合、経団連も大手メディアもそうだし、検察(時限では区切れんが)もそうだ、その他何チャラ協会、何チャラ会、それらに付随する何チャラセミ
ナー、何チャラスクール、何チャラコンサルティングなどなど、ほとんどがグローバライゼーションを抗っていると見せかけているだけで抗えていない事実があ
る。
僕は、今の日本の没落は政治のみならず腐った組織によるものだとも思っている。みんな政府や政治家を批判する前にそういう賞味期限の切れた腐ったオジサン
団体を批判できるリテラシーを持たなければならない。素晴らしいコトをいうヤツらを信じてはいけない、それはこの20年が証明している。彼らは自分たちだ
け褒め合って助け合って利益を得て、ツケだけを未来に回していってるのだ。
何百年も続いてる企業もあるじゃないか、と言う方もいらっしゃるだろう、当然否定はしないしむしろスゴいコトでリスペクトしている、しかし、日々生まれて
いる組織の数でいうとリスペクトに値する継続はホンのひと握りだし多くは同族というか世襲で、伝承する何か、を持つトコくらいだろう。
グローバルの流れの中でこの先そういった企業が生まれる可能性は今後減っていく。これから企業は名前は残ってもリーダーはもちろん中身もやり方も変わって
くだろう。僕はその方が業界的慣習的シバリがなくなって若いヒトが次々時代に即したモンをクリエイティブしていけると思う。そんな軽いモンでいいのか、と
いう問いかけもわかる、でも、僕は日本人はユダヤ人に似ていると思うので、誰が何を
どうやろうと日本人のスピリッツは伝わって生きているしこれからも続い
ていくと共同体の根源として信じている、だからむしろ、集団に依存する方が危険だと思うのである。
さて、リテラシー、自己決定という素材を得たので、あとは、行動にアプローチせねばハッピーにはなるまい。
ここまでで、何がしたくて、ドコに立って、何を観て、何を得て、何をするか選択する、トコロまできた。
では、次に必要なのは、どうやって、であろう。方法論というのは人それぞれなのでそれほど僕が何か言えるコトはない、だが、昨今、せめてあればいいのに、
と見受けられる2つの方法論を提案しておこう。
まず、ひとつ目は、ロードマップの作成だ。
1995年クリントン政権下におけるパレスチナとイスラエルの仲介として"オスロ合意"時に用いられ有名になった手法で、最近では福島原発事故の工程表が
それではあるがこの工程表には不備が多すぎてロードマッピングできてるとは言い難い。
因みに、オスロ合意もその後頓挫しているのでロードマップは目安と思われがちではある。
以前(★2008.2.22
go go happy day)、ラグビー日本代表監督ジョンカーワン氏の open-ended
question(答えのない質問)の話でも書いた通り、帰結(ゴール)に向かっている時間の方が長いので、途中のグレイゾーンをいかに楽しむか想像力を
もってクリエイ
ティブしていくかに本質はある。
ロードマップとは、まさにそのグレイゾーンを把握しリテラシーによってクリエイティブし拡げた可能性を帰結に導くための、言わば、段取り、のようなもの
だ。
ロードマップは確かに目安でしかないが、その行程が時間軸、内容面共々、明確であればあるほど、ヴィジョンであればあるほど実現しやすくなるのは自明であ
ろ
う。グローバルな世界に於いては大なり小なりロードマップの提示はスタンダードだ。
だが、残念なコトに、今の日本人はロードマップを描く作業がおろそかだ。まぁ勿論、タチイチもわかっていない(何だったらゴールも曖昧)のにどういう道を
進むか決定できるハズもないのだが......
僕が思うに、ロードマップ作成の妨げになりやすい要因は、強固な理想
主義と依存体質である。以下検証。
理想を声高に唱えるヒトの多くは、タチイチを思い込みで決めていて(本人は気づいていない)現実の把握に弱い。
現実認識が甘いというコトは理想が絵空事になる。
理想や理念や目標や目的(それらがロードマップだと勘違いしている方もおられるようだ)があれば自ずと道は開けると精神論か根性論で思っている。
そんなヒトほど小さな目標を達成しただけで満足しがちである。そんなヒトにロードマップを尋ねると、ゴールと近未来はやたら明確なのにその他は穴だらけと
いう場合が多い、5年後10年後とか考えているように言ってても合間合間やリスクヘッジ面トラブルシューティング面など理想的で具体的ではなくビジョンも
あるようでない。そんな行程はロードマップとはよべないし中途半端なロードマップならない方がよほどプラグマティックでよい。
民主党のマニュフェストがいい例だ。あれだけの理想を並べられる想像力は素晴らしいものがあるが、2年経とうとしているのに何もできていない、どころか震
災があったコトを差し引いても酷すぎる。民主党と理想好きオジサンたちはよく似ている。オジサンたちはまだ景気がよかった頃の自分の方法論が正しいと思っ
ているので自分の経験してきたコトを若いコたちにタチイチとして押しつけ、ロードマップとして示したりするが、オジサンはいい時代に培った方法論なんてこ
ん
なグローバル化した流動的な世の中では弊害でしかない。自分と若いコを相対的に観るコトには少々無理があると思う。
さて次、理想はないよりはある方がいいに決まってるし、理想がすぎても現実をちゃんと観てバランス感覚さえ考えればまだ対処できるとは思うが、依存体質と
いうのは結構難儀だ。
何かに依存するとなかなか前に進まない、依存は思考停止を招く、依存は自律を失いが
ちで自立できなくなったりする、依存は自己決定を阻害しやすくする。
つまり、依存とは停滞だ。
ロードマップをつくろうとしても何かにハマっているとリテラシーがなくなり自己決定できなくなり本筋を見誤ってしまう。それこそが依存体質の落とし穴だ。
ヒトは、何かに依存していてもほとんどの場合軽いモンなら問題ないと考える。なぜなら、依存しているモン自体は自己決定で自分が選んだモンだし、自分が間
違った選択はしていないと自己正当化したい(何かのファンに多い)し、依存まではしていないし自分でコントロールできる、と思い込んでいるからだ。
つまり、自分を疑うコトがないためだ。
タバコが良い例だろう。禁煙のロードマップ作成時、自分はそんなに依存していないと思うヒトがほとんどだが、思っている以上にハマってる、なので、ロード
マップに失敗する。
自分の依存度を知ってれば知ってるほど対処できるしより明確なロードマップを描ける。
ヒトは、何かに捉えられてしまうと、自己は思考停止するものだ。宗
教もそうだしファンやマニアも依存体質と同義だ。
そういう傾向は、保守的で過度なコミュニタリアンに多く観られる(特にストーカー体質やオキニ通いつめ傾向もだが男性に多いかも)、そう、すなわち今これ
を読むアナタたちだ。
コミュニティに依存する感覚こそ依存体質の典型で、そこではリテラシーも必要ないし自己決定という概念もない。これだけ書いても自分は違う、とみんな思う
だろう。そこにアナタの思考停止は表れている。僕に注意されたヒトもいるでしょ?
勘違いして欲しくないのだが、僕はコミュニタリア二ズムを否定しているのではない、僕もコミュニタリアン的要素はあるしいろんなモンに依存している。海外
ドラマやエンターテインメントや音楽やスポーツ、バーや一部の酒や図書館(本)や世界、日本国にも依存している。でも僕はそれらを疑いリテラシーをもって
自己決定で選択して楽しんできた、アイロニストなほぼリベ、だからだ。
僕は、コミュニタリア二ズムの否定ではなく、コミュニタリアン諸君の依存体質や依存傾向が苦手だし退屈にカンジているのだ。それは遊びになってない、自分
以外はハッピーでないコトに気づいて欲しい。
昔から酒場にはマニアがたくさんいた。マニア指向な遊び人たちは今思えばみなリベラルだった。いろんなモンを見つけては自己決定で選択し追求していた。今
と違うのは、自分のマニアなコトをまったく興味のないヒトにもオモシろおかしく話し、何だったら誘って一緒に楽しんでいた。ソコから流行ができたコトも
あった。酒場を盛り上げてくれていた。人生をマニアな生き方で超越していた。
しかし、今のマニアは、趣味の域を超えて癖に近い。コレクター的指向で自分たちの世界をつくり興味を示さないヒトは巻き込まない、理解してもらえないと思
うと他を寄せ付けない。おカネをかけ時間をかけ知識やモノを集め、マニアの間だけもしくは自分ひとりで悦に浸る。オタク文化サブカルチャー文化の閉鎖的部
分のみがエゴとして残り
web中心のコミュニティを形成する、依存する。不思議なコトに自分たちで流行は創れていない、どっかからの発信にのっかってるだけで、結局秋元康的なモ
ンに、雑誌の特集的なモンに、啓蒙されている。
僕も商売上なるべくこちらからアプローチして拡げてみるがマニアックすぎるわ依存度が高すぎるわでハッキリ言って話しててもオモシロくない。
彼らは人生をマニアな生き方で内在してしまっている。自己完結自己満足なのだ。
いろんなマニア(依存体質なヒト)がいるが、言えるコトは、水は川となって流れていかなければ一カ所に滞ると淀み、やがて腐ってしまう。それは情報や知識
や集団も同じだ。マニアの帰結は必ずしもハッピーではないのだ。
自分のツラいコトを避けて自分の気に入ったコトだけして満足するのは自己決定なのならばそれはそれで別にいい。こういう社会なんだから逃げるコトを決定す
る意思選択は自由だ。
しかし、いずれ水が腐っていしまい、水を入れ替える時がくる。そんなコトを繰り返す余裕はこれから先の世界では難しくなってくだろう。
ならば、普段から滞らせずに流しておけばもう少し楽になる。
井戸を深く掘るのをやめていろんな川を気楽に楽しむ方がハッピーになれる。
僕はバーという遊びの世界から、この、何かに依存しマニアックに凝り固まり腐った社会を憂いている。依存は趣味の範疇が適宜で、『タモリ倶楽部』みたいに
遊びにならんとね。せっかくの知識や情報なんやしみんなでハッピーになりたいよね。その楽しみをみんなに教えておくれよ。今のマニアはストーリー(ネ
タ?)を語れない。昔のマニアはいくつかのショートストーリー(鉄板ネタ?)持ってたモンやけどなぁ......今は語りだすと熱くて長いだけやから
なぁ....
リテラシーを持って自分のやってるコトを疑おう、執着せず広く浅く
楽しもう、そんなカンジかな。
リテラシーと依存は表裏一体で、共同体的に生きていると依存体質になりリテラシーが足らなくなるし、逆にリベラルで自己決定する行程でリテラシーがあれば
共同体の不備も観えるし依存するコトは極端に減る。依存は自由度を妨げるからだ。
余談。
言葉遊びかも知れないが、先ほど検証したリテラシー群に『リテラシー』という言葉に代えて『依存(マニア)』という言葉を当てはめると、オモシロい。
原発依存(マニア)、歴史依存(マニア)、相撲依存(マニア)、バー依存(マニア)、集団依存(マニア)。
オモシロいねぇ.............他にもいっぱいあるね。
以下の単語の語尾に、リテラシー、もしくは、依存(マニア,フェチ,ファン)、をつけて、その両方と自分との距離を考えてみてください。
アナタのリテラシーのリテラシー度と依存体質度がよくわかるかも。
メディア、情報、マーケット、政治、金融、ビジネス、原発、反原発、再生エネルギー、軍事(戦争)、警察(国家権力,検察)、ホリエモン、道具、語学(英
語)、外国(海外)、海外ドラマ、アート、デザイン、印刷物、色、文学、言語、文字、風俗(各種)、サッカー(各種スポーツ系,エンタメ系)、落語、武
術、芸能界、演劇(歌舞伎,伝統芸能)、AKB(秋元康商法)、タイガース、ミュージカル、音楽(各種ジャンル)、楽器(各種)、酒(各種ジャンル)、ア
ルコール、大麻(ドラッグ)、サプリメント、飲食店(水商売全般,バー,レストラン,居酒屋,洋食屋など)、衣食住、恋愛、セックス、男、女、子ども、
ディズニー(サブカル系,ファンタジー系)、科学、哲学(思想)、宗教、神話、憲法(法律)、天皇家、理念、宇宙、健康、趣味(鉄道,自転車,車,カメラ
など)、ゲーム、ブログ、オピニオン(誰かファン)、ウィキペディア、インターネット(web)、ジョブズ(Apple,Mac)、SNS
(twitter,
facebook)、ペット、資格(各種)、勉強、移民、難民、共同体、大学、家族、仲間、集団、実家、国家.........あ、アウトローも。
まだまだあるが、考えたら意外と依存してるワリにリテラシーが足らんから本質わかってないのがたくさんあるね。っつうかみんなこのコラムまではそんなん考
えんかったっしょ?......依存してんだよね。
では結論。
理想主義的ヒトも依存体質なヒトもプラグマティックでない分ロードマップを描けない。
ロードマップがないといちいち壁にぶつかって考えていかなきゃならなくなるし結構メンドくさいし話していても楽しくない。
リテラシー、タチイチ、ゴール設定、ロードマップの作成、自己決定、この流れが昨今少ないためこの国はグローバル経済に乗り切れず停滞気味なのではない
か。
FTAやEPAが良い例(TPPは今の政権の方法論でやるとまたUSにええようにされそうなので様子見かな)である。
さて、ふたつ目の提案は、精神的な部分での方法論だ。
上記のプロセスまできて、いざロードマップに従って覚悟して自己決定していても、この世の中いろいろ予期せぬ出来事やどうしようもない不可抗力な出来事に
出遭ってしまう。その時、多くの場合は受け入れるしかないのだが、精神的にまいってしまう、スピードの速い社会で対応できなくなってしまう、そんな時に役
に立つのが、ココロをレイヤー(層)に分ける作業だ。
多様なグローバル社会、日々たくさんのコトを我々は同時進行でこなしていっている。そう、何本ものロードマップが道半ばで同時進行している。帰属が増えれ
ば増えるほど作業はタイトになっている。なぜロードマップをつくるかはココがミソで道筋があれば毎回考えなくても続きからでいいため混乱しなくて済むの
だ。
疲れたり問題が起こった時は、まず最初に、ロードマップをバラすトコから始めればいい。
例えば、1枚目のレイヤーは、ロードマップのレイヤー。
これもいくつかある。まず仕事のロードマップ、今コレしてて次コレやって5年後には......。
家庭のロードマップ、何年後に娘が大学やからとか両親の体調やら税金やらローンやら保険やら。
趣味A、今日はglee観てこの次はデクスター。
趣味B、あのコとはココにメシ食いにいってこのコとは.....。
あとは、あのトラブル、こうしてああして......みたいな。
と、ロードマップがあれば分けやすいし最悪逃げやすい。
それらをペラペラとめくっていって取り除ければ、後に残るレイヤーには、"自己"という土台が現れてる。
"自己"にはこんがらがったレイヤーとも呼びにくいようなモンがある、思想的な部分が増え社会との関係性がでて、宗教やアイデンティティも重要となり、行
動行程(ロードマップ)を除ければヒトは、いくつかの帰属に支配されている。ややこしい。
例えば、
エスニック(民族)アイデンティティのレイヤー。
ナショナルア(国家)イデンティティのレイヤー。
近接共同体(コミュニティ)レイヤー。
家族のレイヤー。
社会や政治へのコミットメントのレイヤー。
宗教のレイヤー。などなど、非常にややこしく繊細な部分である。
この文化や帰属の話は次回へと持ち越すことにするが、なんせ今回言っておきたいのは、レイヤーに分けて1枚1枚それらをめくってモノゴトを考えると、いろ
んなコトが観えてくるというコトだ。ココでもリテラシーが必要となる、自分を疑う自分リテラシー。
そして最後に、レイヤーでいちばん厄介なのは、"感情"
というレイヤーだ。
このレイヤーがそれぞれの層に入り込んでいるため話がややこしいのである。でも、どうだろう? 逆に考えれば、この
"感情のレイヤー"
をペロリとめくるだけで他のレイヤーがシンプルになるのではないだろうか?次回は、この感情のレイヤーを取り除いた上で自分の土台を考えてみましょう。
タチイチも尚一層明確になります。
とりあえず迷ったら、まず、自分をレイヤーに分けて、一番底に横たわってる感情のレイヤーをめくって、個々を別々に冷静に観てみれば意外と本質が観える。
タチイチを確認し、(バーで)活きた情報を得、リテラシーを持って精査し落とし込み、過度な理想と依存体質を捨て、選択肢を創り自己決定し、現実に沿った
ロードマップを作成、修正しながら前へ進む。こうすると結構楽にハッピーに生きていけます。
長くなってるが、最後に、僕の原発に対する所信表明をしておこうと思う。
僕はグローバライゼーションが進むこの時代、何が起こるか予測のつかないような世界になってると思っている。いくら準備してもしきれないし着実に確認しな
がら一歩づつ進むしかないだろうが、かといって慎重になりすぎてもグローバルのスピードについていけない。というかハッキリ言って、トラブルを未然に防ぐ
というのはもう不可能に近い。
なので、これからの世の中は "対処" する時代なのではないかと
僕は考え始めている。
"何か" が起こってからどうするか、どうできるか、ドコへ向かうか。("何か"は必ず起きるのだ)
領土の問題の時も今回の原発も、否、震災ですら、我々(?)は対処できていない。
対処というのには勿論準備も必要だ。しかし、人間の想像力には限界がある。
不測の事態に対処するためには、今回テーマに取り上げた、タチイチ、リテラシー、そして、自己決定が必要となる。つまり、瞬時の現状把握(観察力)、決断
力、行動力が必要というコトだ。
そして、それをジャマするのが、理想主義と依存体質だ。キレイゴトでは何も解決しないし、技術にしても利権にしてもひとつに依存するとコトが前へ進まな
い。
僕は、なぜ、ロードマップとレイヤーという方法論を提案しているかというと、昨今どうも潔癖がすぎて『二項対立』(脱構築にもなりえない空疎な二項対立)が増えてモノゴトが前へす
すみにくくなっているからだ。
原発を例にあげる。
原発は、経済活動を維持するためにもクリーンでエコロジーな世の中を目指すためにもリスクもあるがトレードオフするという原発賛成、と、放射能がコワいし
人智を超えたモンより新しいエネルギー開発していくべきで多少の不便は仕方ない今すぐやめるべきという反原発、の構図。
どちらにも理想と依存があるコトがわかる。二項対立し感情論が増えている。これでは白か黒かの争いしかない。
感情のレイヤーをペロリとめくると、今、世界的に特に日本では原発推進(米仏中は微妙だが)なんていってるヒトはほとんどいない、先進国で新規原発は造
れっこない、途上国は原発が欲しいワケでなく経済が欲しいだけだし、今は仕方なく原
発容認というのも含めて世界中が『脱原発』なのである。
続いて、リテラシーの部分で観ると、ドイツやイタリアは原発をやめるというがフランスから電気を買うなら全体で観るとキレイゴトの範疇で意味はない、そも
そもドイツはメルケル以前は脱原発だったので必ずしも今回ドイツ国民が英断したワケではないし、他国も原発からの脱却を考えてはいたがリーマンショックで
世界的に不景気になったのでオバマのグリーンニューディールを筆頭にドイツも原発に振り戻していたのだ。
その矢先にたまたま今回の事故があった。だから国単位で観ると諸手を挙げての反原発ではない。そりゃそうだ、国民から税金たくさんとって化石燃料ジャン
ジャン燃やして公害まき散らし尚且つ原発廃止して冷却するコストを何十年もかけるより、国益国民益を考えれば公害もなくコストも安くいっぱい短時間に電気
をつくる原発はありがたいんだから。グローバル社会で原発は必要だったのだ。
原発推進と反原発の二項対立がいかに感情的かわかりました? で、ロードマップが必要となるワケです。
話の途中で余談だが、『二項対立』のバカバカしさはディベート教育のない日本では理解し難い、ディベートリテラシーがない。欧米では、自由(リベラル)と
いう観点から公正(立場の入れ替えの可能性があるという社会のどこに生まれても自分は耐えられるかというコト)を期すため、自分と違う逆の立場に立って議
論し合う教育が徹底される。
十数年前、関西ローカルの深夜番組で喫煙者対反喫煙者の討論をした時、喫煙者側(だったと思う)の上岡龍太郎が、さんざん相手をコテンパンにした挙げ句、
まぁどちら側に立っても勝てるんですけどね、と言った。アイロニーである。いかに二項対立が不毛かわかる。
グレーの部分をどういうロードマップにするかがだいじで白か黒かなんて実はどちらも同じ(でないと公正ではない場合が多い)なのである。
しかしまぁ、理想主義的ヒトと何かに依存体質のヒトは、すぐ二項対立
にしてしまう。
確かに、政治手法として『抵抗勢力』なるモノをつくる方が潔癖な日本人に受け入れられやすい。小泉純一郎元首相や橋下徹大阪府知事が良い例だ。しかし、
ちゃんとリテラシーを持っておかないとプロパガンダに絆されるとファシズムに向かいかねない。チェックアンドバランスが重要である。
原発は、1942年シカゴで世界初の実験用原子炉ができて以来、核兵器として広島、長崎の爆弾投下を経て、1953年のアイゼンハワーの平和利用の演説を
きっかけに、1954年6月27日、57年前のまさに今日、ソビエトのオブニンスクで世界初の原子力発電所が稼働した。たかだか60年ほどの技術なのだ。
さて、現在世界中に原発は約400基、途上国でつくろうとしてるのも合わせて600弱、世界人口は当分どんどん増え続けエネルギーは必要不可欠、しかしそ
のうち化石燃料は底をつくというし環境破壊の問題もある、途上国は経済優先なので脱原発でも原発はトレードオフで考えているだろう、世界中の原発をなくす
のは核兵器をなくすよりは難しくはないだろうがやはり代替エネルギーがない限り経済を滞らせ不便を強いる原発廃止は処分も含めて当面不可能であろう。
日本だけで観ても、最短で1年ちょっとで全停止できるハズだが、現状の経済、財政、代替エネルギー不足、使用済み燃料の処分等考えてもまだ全停止は時期尚
早だろう。今全て止めるとこの国は破綻するというコトだ。
これがタチイチである。
ここからロードマップを作成せねばならない。
だから根性論の反原発はダメ
なのだ。僕は反原発デモに参加して思ったのは、あまりにも思考停止で潔癖なヒトが多くて驚いた。不安なのはわかるが、大人はしっかり考えないといけない。
僕は、今回の一番の問題は放射能汚染で、関東圏も含めた福島に近い子どもたちはみんな今すぐにでも疎開させるべきだと思っている。が、だからといってヒス
テリックになってはいけないし、大人は放射能を気にするより経済のコトを考えた方がいい、エラいコトになってるよ。デモ参加者の中にはロードマップを持っ
たしっかりしたヒトもいてそれは救いだったが.........
芸能人やアーティストなどが反原発を掲げるのは大変良い、というかもっと叫べってカンジ。
表現者は常にそういうメッセージを伝えて世の中の流れをそちらに向けるべきだ。
そうするコトで風が吹きイノベーションが加速するのだ。しかし、我々一般人は冷静に現実的に考えていかなければならない。思考停止になっていつものお祭り
体質では前には進まない。
忘れてはならないのは、原発を止めたとしても今後ずっとコストをかけて冷やしどこかに眠らせねばならないコトだ。僕は福島にオンカロを造るしかないだろうと思ってるが.....
どちらにせよ、僕らは、節電はできても文明を後退させるコトはできない。できるようなコトいうヒトもいるが今の生活水準を落とすなどできるハズがないし経
済をもっと発展させて借金を減らし復旧復興を促進するならもっと電気をつくるしかない。
僕は今回たくさん調べてみて、間違いなく地熱発電がいいと思うし、ずっとこのコラムでいってきたメタンハイドレートでの火力発電もいいとも思う。でも、公
害も増えるかもしれないし、まぁ経済発展させるとしたらちょっと足らない。足らない分は当面しっかり安全な原発のみ再稼働させるしかないというのが現実
だ。ただ、そこで注意しない
といけないのは、今の電力行政や電力会社をどうするかである。これは今のトコロ観えては来ていない。だから、大阪府知事がいうように電力会社側の一方的な
節
電要求や原発再稼働要請は、リテラシーを持って注意せねばならない。よく考えねば。
理想ではなく帰結としては、原発をなくすコトだ。
そのために代替エネルギーを早急に開発していくコト、代替エネルギーが原発の替わりになるまで時限的(たぶん10年くらい)に原発を少しだけ動かすコト、
電力会社の仕組みを変えるコト、使用済み燃料の閉じ込める場所(オンカロ)を造るコト、技術者を育てるコト(未来のためにも核の技術は研究し続けねばなら
ない)。
これが、現実的な原発のロードマップの材料である。なので原発は、なくすコトを前提に容認するコトになる。
だが、あえて今後僕は、反原発を叫ぼうと思う。経済縮小の可能性があるのは承知で原発全停止も求めていく。もう国家や利権だらけの権力には任せられない。
せめて地方分権で地方で決めていくしかない。そのためにも民の行動によって風を吹かして新エネルギーの開発を促進させたい。
僕はほぼリベラルで自己決定がだいじだと思ってる。日本人特有のお祭り体質で流行ゴトのように周りに押し流される(旧態依然共同体的な)のを嫌悪してい
る。周りのコト未来のコト(共同体のコトすら)をよく考えて覚悟を持って自分で決める、それが間違っていようが正しかろうが問題は"自己決定"なんだ。あ
かんかったら再チャレンジできる世の中であると尚やりやすいが、自己決定がある決定
と、感情のレイヤーや理想主義や依存体質な決定は、まったく違う。
今日、ほとんどが後者だ。だから、二項対立しか生まないしロードマップも作れず前へ進まないのだ。
現実を観ず不安からの感傷的反原発はハッピーに向かわない。現実だけ観て経済のための原発容認も一見ハッピーに観えてみんながハッピーにはならない。自分
たちのチカラで原発をなくしていくコトでハッピーになるのだ。
このコラムを読んでくれているアナタはきっと善いコミュニタリアンだ。今回のコラムでなんとなくリベラルも理解してもらえたろう。だが残念ながらアナタは
リベラリストではなくどこか理想主義的で依存体質だ。
アナタが少しでも何かからの依存をやめていろんなモンにリテラシー
を持たないと、アナタ自身も世界もハッピーにはなれない。
もう一度タチイチを確認してみて欲しい。
ひょっとしたら違ったゴールが観えるかも知れない。その時はその時で考えよう。
とりあえず自分を疑いもっと目を観開こう。
感情のレイヤーをめくり二項対立を避け、ロードマップを作って歩き出そう。
途中、道に迷ったらバーで酒を呑めばいい、バーはアナタの行く道を明るく照らしてくれるハズだ。対処する術も見つかるだろう。
みんなで酒を呑んでハッピーになろう。
今回、僕は反原発を自己決定した。僕のタチイチはココである。ココから未来へ覚悟し責任を持ってスタートする。
まぁ、僕の意見を受け入れるか入れないかはどうでもいい、アイロニーに僕の意見すら意味があるのかも僕自身わからないしどうでもいい。
少なくとも小さなハッピーを集めて大きなハッピーにするだけさ。
もっと自分を解放して自由にやろうよ。
★いくつかの本文を数冊の参考文献から引用しましたがメンドくさいので記載いたしません、筆者に直接お聞きください。