★2006.3.19 大きな木の上の物語
『俺は、板の上に手はつかない。』と、先輩バーテンダーのY氏は言った。僕は当時その言葉の意味すら知ろうとはしなかった。15.6年くらい前の
話だ。
僕は25歳で正式に前の会社に雇われるまではほぼフリーターで、ヴァンクーバーや東京も含めいろんなところに住み、いろんなヒトたちと昼も夜も
働いて見果てぬ夢を追いかけていた。何人もの素晴らしいバーテンダーの下で働き一生懸命学びこそしたが、片手間で何ひとつ理解していなかった。あ
る時当時のオーナーに、『夢に挫折したら、バーでもやりますわ。』と、言ったら、『そんなコト言うな、こっちは真剣にやってんねんぞ。』と、おも
いっきり怒られた。今まで何人かのバーテンダーを面倒みてきたけど、彼等と比べてもその頃の僕はホントに出来の悪い "ムイテナイ"
レベルの馬鹿野郎だった。僕はホントによく怒られた。
きっちり夢に挫折して日本に帰ってきて大阪から東京、東京から大阪と途方もなく彷徨い歩き虚無感の中に在りながら、いつも僕の居場所は bar
だった。bar で酒を呑み bar でヒトに出会い bar が僕を食わせてくれた。"ムイテナイ"
僕は素晴らしい諸先輩方のおかげで、いつの間にかバーテンダーになった。先輩方にはホントに失礼しました。
さて、板の話。
僕がこの世界に入った当時はまだバブル景気が残っていておカネのかかったお店も多かったが値段も高かった。
どこのお店もクオリティの競い合いで緊張感やステイタス感があり、凛としていた。みんなカッコ良かった。そんな中、バーのカウンターは一種
神聖な趣、風潮があった。鮨屋なんかもそうだが何か "特別"
だった。だから、一枚板だったのかも知れない。今はそういう風潮も余裕のなさか薄れつつあり、予算の都合か一枚板のお店も減った。
一枚板には "ツギメ" がない。
バーという場所は、どんなイヤミな金持ちも貧乏な学生も悩みを抱えたホステスも老若男女 "ツギメ"
なく一杯の料金(カバーチャージ込み)さえ支払えば平等で対等だ。一枚板でなくなったとしてもバーカウンターの意味はそこにある。
この板の上では喜怒哀楽いろんなドラマが分け隔てなく繰り広げられる。そして、何かが生まれる。いいものは持ち帰えればいいし、いらないものは
板の上に捨てていけばいい。外から内へのワンクッション、それがバーの存在意義であろう。バーを選択するコトはヒトのライフスタイルを心地よくす
ると僕は思っている。だから、バーテンダーはできるだけハッピーになってもらえるように精一杯演出しもてなさなきゃならないし、お客さんもルール
を守らねば厳しい警告を受ける、それは、すべて板の上でのライフスタイルを尊重するためなのだ。
『 板の上に手はつかない。』は、その象徴のひとつである。僕は今になって身に滲みてわかる。
確定申告も終わり、毎年この時期、気が抜けたようになるのだがこのページを楽しみにしてる方々から待望のメールをいただくと余力を振り絞って書
かざるをえまい。イベントの件やワタクシのプライベートでの件でご迷惑おかけした方々には心よりお詫び申し上げます。
ちょっとだけ休憩してまた楽しいこと考えますのでそのときはヨロシク、肩の力が抜けてきてなんかワクワクしている今日この頃です。