★ 2013.4.27 imagine
慣れというのは厄介だ。
ヒトはどんな状況にも慣れてしまう。
不景気とか、海外生活とか、男女のいろいろも、それから、病気やら事故やら.........慣れっちゃう。
この春、新しい生活を始めた方も多いかも知れない。これも慣れるまではタイヘンだがいずれ慣れる。
例えば、何かしらのキツい仕事をするとして、最初の数日はシンドくて仕方なくても慣れてくればさほどキツいとカンジなくなってしまう。
"順応した" のだろうが、現実的にはキツいモンはキツい、ただ慣れただけなのだ。
不景気も同じ。減給になったりした月はツラいが数年経つと当たり前になっちゃう、まさに今だ。
海外生活も、渡航した当初は不安(ホントっ)だが、いずれ慣れて住めば都にはなる。だけど、日本にいるよりはたいてい不便だし不安なんだ。
失恋もそうだ、別れた当初はどうすればいいのかわからず(特にオトコは)必要以上に長い長文メールしてみたり相手の部屋の窓を見上げたりする、依存度が高
いとストーカーになるが、たいていの場合は数ヶ月経つと状況に慣れて別の ヒトに目がいく。残念だろうがそういうモン。
遠距離恋愛もそうだろう、遠くの最愛のヒトより近くのイイヒトで、別れる確率も高い。
結婚も離婚もそうだが時間が経てば当初のキモチは変化する、そして言い訳しながらもまた慣れて浮気もするし再婚もする。懲りない。
状況に慣れるとホントにだいじなモンなんて自分可愛さには勝てないというコトだ。
ま、結局、多くは状況に慣らされただけで実は何も解決できていない、もしくは何も手に入れていない場合が 多いんだが.......
勿論、病気や不慮の事故などは「不可抗力」なので"慣れ"自体は「悪」ではないし、どちらかというと"慣れ"は、ヒトをハッピーにする、もしくは冷静
にな る、 改善する、対処する、そんな手段のひとつかもしれない。
また、"
慣れ"は依存からの解放かも知れないし逆に依存の前触れかも知れない。
そう、残念ながらコントロールできないのも"慣れ"なんだ。
と、いうワケで慣れというのはホント厄介なモンなのである。
僕自身も新しい店に"慣れ"て確定申告も済んで徐々にやりたいコトができるようになってきた。
今回の店はいろんなヒトの手を借り、いろんなヒトの思いをカタチにしていこうとしている。流動的な店づくりは新しいコミュニティへのひとつの挑戦だ。
自分の思いを抑えてヒトの望みを引き出し行動してもらうインセンティブする作業は思った以上に誤解され、思った以上に労力を要する作業で、前店舗でやりた
い ようにやってきたみたくは今のトコいってない。
みんな意外とやりたいコトをやる一歩が踏み出せないか
無謀に踏み出してやりたいコトに近づかないか のどちらかだ。結構人任せで能動性がなかなか出てこない印象がある。
ウチのオジサンたちもたぶんにもれず苦労した。とりあえず僕が仕切り直す。
まぁ中途半端過ぎかも知れないが、少しづつみんなで一緒に模索していくしかない。
.......んなカンジでこうしてコラムを再開できるまでこの状況に"慣れた"というコトです、良くも悪くも。
んで、ちょっと思ったのは、"慣れ"
を良い方向性でインセンティブしようとするならライフスタイルを再構築するのが手っ取り早いというコト。
慣れない状況は自分を見失いがちなので自分のモノサシをイマココ用にライフスタイルを作り変えてやり直せばいいのだ。前と同じようなカンジでもいいし新し
いカタチでもいい、ただオトナだから 全く別
の自分を創るコトは難易ではあるけどね。そうすると環境が少々悪くても「自分が今ココに在る」はハイデガー的には担保できる。
そこでやはり弊害となるのが、前々回にも述べた強固な理想 主義と依存体質だ。
この2つはリテラシーを劣化させ、タチイチをブレさせ、ロードマップの妨げになる要因だ。(前々
回、2011.6.27のコラムに詳しく書いたと思うのでまずこちらを読んで欲しい)
何かに偏った再構築をしてしまうと慣れはしても自由度が下がりハッピー
になりにくいというコトです。
さてさて、前々回、 僕は 、『何かからの依存をやめていろんなモンにリテラシーを持ち自分を疑い感情のレイヤーをめくり二項対
立を避けもう一度タチイチを確認しアナタ自身も世界もハッピーになるためにロードマップを作って歩き出そう』と提案した。不幸な震災(原発事件)が
あったのをきっかけに書いたが、実は今回のこ の店へ
の布石のつもりでもあった。残念ながら理解してくれなかった方々は僕の前からいなくなっちゃったけどね。ははは。
今回のコラムはその続きというより、4年前からもう30稿以上推敲していた深い深いテーマを書く。
.........と、その前にまた余談。質問があったのでお答えしとく。前々回のコラムで僕の人生の 後半戦のテーマみたいなコトを書いた。
『今(向かっている)の 小さな社会大きな政府 はダメで 大きな社会
小さな政府、多文化主義ではなく文化多元主義、が今必要なのではないのか 可換可能なモノはいらん、可換不可能なモノを伝統として保守すべき、可換可能部
でグローバル化や和平交渉を 』
小さな政府大きな社会の意味は前々回長々と書いたので端折る。民主党政権下だったので大きな政府を危惧していたが現政権はそうでもない、ただ、大きな社会
でもないの でここは第3の道(第3極ではない)の登場に今は期待する。
あと多かったのは、レイヤーの話がわかりにくいとの指摘と文化多元主義のイメージで、それらはこのコラムの後半にまわします。
で、実は一番たくさん質疑があったのは僕の、"可換不可換(可換可能と可換不可能、入れ替え可能と入れ替え不可能)論"
だ。twitterで結構詳しくいろいろ引用して書いたのでtwilogで" 可換"を検索してもらうと有り難い。
では、説明する 前にまず僕のタチイチを引用しとく。
★僕は今までのコラムで検証してき
たとおりコミュニタリアンに近いし憧れるが、ほぼリベラル(自称 ほぼリベ)である。
何もかもをルールで規制(息苦し
い)しなければならない民度の下がったこの国を憂うが、リバタリアンのような国家より個人という感覚は薄いし、コミュニタ
リア二ズム的な大きな社会も必要だと考える。
国
家の必要性は文化的側面からは保守的だが、それは三島由紀夫の文化防衛論に賛同するもので、文化的天皇制を重要視するし日本
の風土や芸術や言語などの他
と入れ替えが不可能な部分の保守というカンジで、大昔のというかヨーロッパの古典的自由主義に近いかも。
けど、国境などはどっかの学者がいってたが"ソフトボーダー"で
良いと思って る(世界で国境が明確な国の方が少ないんだから、お互い主張はしてもいいが利
権は共有すればいいんだ)点や、共同体ノスタルジーなオジサン世代と若い衆との世代間ギャップの認識や、グローバル経済へのアプローチで
はリバタリアンを 支持する。
あ
と、コミュニタリア二ズムはリベラルを前提に重要だが、これだけグローバル化が進み、昔
ながらの共同体の消失(空洞化した共同体ばかり)が自明な今、ノ
スタルジーに"一致団結"や"みんな仲良し(仲間意識)"を掲げ、"がんばろう日本"的コミュニティ形成(教育)は糞だと僕はカンジてい
る。そんなコトを
言わない方が自由度が高くクリエイティブしやすい、帰結そういえばみんな仲良かったよね、くらいがハッピーなコミュニティなんじゃないかしら。仮に仲良く
ない実務集団に在ったとしても別の帰属で、逃げ場所でもいいから"居場所"さえ(それがバーであってもいい)あればいいと思
う し.............
自律した個人が、複数のコミュニティに帰属して、活きた情報を得て、正義(共同体的?)に基づき自己決定で生きていく自由を求める、そんなカンジです(自
称ほぼリベ)。(2011.6.27 山本裕之のコラムより)
因みに、リベラルとは、の引用。
★リベラル、つまり、『公
正(立
場の入れ替えの可能性があるという社会のどこに生まれても自分は耐えられるかというコト)と、
最小不幸と機会の平等に価値をおく自由』を
中心に正義に向かってアプローチする。(2011.6.27 山本裕之のコラムより)
僕はほぼリベなので、公正を重視している。
公正とは入れ替え(可換)可能性で、カンタンにいうと人のキモチになれるか?それでokか?それでみんなハッピーか?ってカンジかな、グローバリゼーショ
ンに於い ては必須だし世界平和の根幹ではないだろうか。
ただ、なんでもかんでも入れ替えてしまうと、お前じゃなくてもいい、になっちゃうし、存在理由がなくなっちゃう。
僕はもはやグローバリゼーションには完全には抗えないと思っているし世界平和を望んでいるのでエゴは極力縮小すべきだと考えているが、僕らが僕らで在るた
めに (っていうと何だか旧い共同体的だな)、グローバリゼーションに少しでも抗って
いくために、日本の風土や一部の慣習や言語や芸術や文化などの入れ替
え不可能な部分を守らなければならない。
ここで可換域不可換域のライン引きが必要となるワケだが、このライン引きは経験則やタチイチや価値観の違いで差ができちゃうので難しい。
ホント難しい。でも、レイヤーは分けねば前へ進まないしライン引いてレイヤー分けしとく方が実は楽なんだ。
僕はよく歌舞伎や相撲を例に挙げる。
例えば、歌舞伎は元来、傾く (かぶく)コト、つまり、真っすぐでない身なりや、言動の風変わりな、人生を斜に構えるような、アウトローなカ
ンジ を表す演劇だ。
なのにいつの間にか「型」ができ伝統が継承されるコトを美徳としはじめた。僕は、傾くコト、そしてそれを表現するための技法こそ入れ替え不可能で、梨園な
るヘンテコな世界やなんちゃら流のなんちゃら的なモンは結構入れ替え可能だと思う。市川團十郎の「にらみ」は不可換だけど、成田屋ってのはこ
うだ 梨園ってのはこうだ、ってのは どう で も いい。
先代の故中村勘三郎の平成中村座や先代の猿之助(現猿翁)のスーパー歌舞伎こそ入れ替え可能と不可能を見事に見極めている。
これが文化だしエンターテイ ンメントだ。
今のままでは、文化すら消費され入れ替え可能なグローバルの波にさらわれいつしか消えゆく、それはもったいない。
エンターテインメントは、入れ替え不可能なメソッドやテーマを、入れ替
え可能な、ヒトの気持ちのわかる技法で伝える遊びの 文化 だと思 うし、これこそが「表現」なのだ。そしてエンターテインメントの表現こそ可換でなのである。
しかし、今の日本の表現者たちはエゴが強く「表現」にまで至ってない場合が
多くホントもったいない、それは「表象」でしかない。表象は内在的なので不可換域が多い。
表現と表象を観ても可換と不可換のだいじさがわかってもらえると思う。
不可換な文化を可換なエンターテインメントで表現して魅せるコトは世界平和への道だと僕は真剣に思っている。
話しを戻す。
残念ながら、
中村座とスーパー歌舞伎は、歌舞伎界では異色とされ少し軽んじた観方をされた感がある。
理由は、観客にマニアが多くなり、リテラシーがなくなり、安定したマンネリズムを求め、そこに依存したため役者も守るのに必死で傾けなくなっちゃった。な
ので役 者はその解放に 現代劇を演じてみたりして、それを「傾く」としてしまう悪循環。
十八番もあっていいし人気芝居もあっていいんだけど、そういった「リテラシーのない観客」にもっと勝負していかなきゃね、観客も育ててかなきゃあかん、
だって 思うに、 昔は歌 舞伎役者
はアイドルで次から次へヒット作飛ばさんとあかんかったろうよ、SMAPみたいなモンやん、みなが望むモンばっかやってたら飽きられてポイっやんねぇ、入
れ替え可能なんだから、
あ、マニアは思考停止で不可換だから宗教みたく依存さしちゃえば関係ないのか........食うには困らん....ってそれ本質か?
文楽も相撲(前々回リテラシーの部分で書いた)も日本の「伝統」や芸能といわれるモンすべてに同じコトがいえる。「伝統」っていつからの伝統やねん?だ
からこんなグローバルの波に呑み込まれちゃう。だって今は文楽よりオモロいモンなんてい〜っぱいある。
どんな「老舗」とよばれるモンでも密かにマイ ナーチェ
ンジしているのだ。ましてや、こんな流動的な時代............
数年前、某線香メーカーのSクンが、会社で線香を新しい世代にも啓蒙するコトになったんですけど何かアイデアありませんか?といってきた。僕は、線香って
い つからのモン やの?と
聞き返した。彼曰く、お香は何千年も前からあって日本にも仏教とともに入ってきて香木を焚いたりする香道なんかもあったみたいだが、日本での「線香」自体
はまだ400年経っていないし庶民に広 まったのはまだ100年ちょっとだとのコト。
歌舞伎も相撲もだけど、これを「伝統」だといっちゃうからややこしい。香なんて(っていうと怒られるか
な?)パフュームもだが元々死臭を消したり体臭を消すトコからはじまって文化的に「やり方」ができ、これが「道」になる。
多くの「道」(歌舞伎も)は入れ替え
不可能にカンジさせられちゃうが実は入れ替え可能なんだ。今や臭くない社会だし香りなんてなんとでもなる。
しかし「道」
の中には入れ替え不可能な哲学的 精 神が内在するためカンタンに入れ替えるのも良くない。ここがポイ ント。
では、線香はどうだろう?寺院なんかには形式的に必要だろうが、僕は宗教すら入
れ替え可能だと思っているのでそれも甚だ疑問。もうひとつ、形式美として線香を認めたトコロでマンション住まいで仏壇も置けない現代で火事の心配もある
モンが啓蒙して需要が伸びるとはとても思えない。そもそもそんな可換可能なモンを伝統だとか文化だとか考えるから気持ち悪い。そんなレイヤー
はめ
くっちゃって啓蒙なんて忘れてビジネスのレイヤーで売るコトだけ考えた方がよっぽど健全だ。例えば、線香は健康に良いというなんか見つけるとか、
ポッキーのCM
みたく線香2本持ってAKBに踊らすとか、月9で木村拓哉に線香開発者役やってもらうとか........その方が割り切っててまだマシ。
昨今、タチイチも観ずリテラシーもなく可換不可換見極めずにキレイゴトで "文化" や
"伝統" を言って何かと本質論にしたがる広告屋が多いが、まったく意味ない。それならもっと俗にどう金儲けするか考えた方が痛快だ。
そういえば著作権もそうだ、僕は今の時代つまりデジタルなグローバルな時代、もう著作権料を消費者からガッツリ穫るのは難しいと思う。
勿論、創り手の気持ちもよ くわかる、彼らは寝る間も惜しんで努
力している。価値を創造している。
しかしこれから先、ノーベル賞 受賞者の多くがいうように、お金にならずとも歴史に創作者として名が刻まれれば栄誉だ と考え、満足するしかないのではないか。
著作権じゃないところでビジネスとして作品に価値をつけるのはいい。が、創作するためには無償では無理なので金が必要だからモチベーションのために金を穫
る権利を、というのはフリー ビジネス全盛のグローバルなこれからは厳しい。
勿論、無償も不可能だし良い経済活動にはならない、食うてはいかねばならない、でも、先に報酬を、は現状難しい。ましてや文化とか
伝統を持ち出されても......
では、どうするか?
スティーブジョブズはネットスケープなんかの功罪をよく観ていたから著作権の限界を予想していたのだろう、iphoneで大衆がカンタンにアプローチでき
るハー ド を考えだしitunesやアプリで安価に少量づつ課金する方法を考えだし
icloudで管理してコピーを利用できなくする「プラットホーム」を創造した。可換性を重視し不可換性を担保する仕組みを創造したのだ。こ の「プラットホーム」がポイントだ。
一方、adobe社はプライドが高いから自分たちのソフトの付加価値をどんどん価格に反映していったためみんなにコピーされまくる始末、もし、
Illustratorや
Photoshopが5000円くらいならみんなライセンスが欲しいから購入するだろう、たぶんそちらの方が監視とか考えなくてすむので利益率も
上がる。結局、付加価値とか文化とか伝統とか、コンサルティングのヒトが好きそうなコトバはキレイゴトで素晴らしいビジネスみたく聞こえはい
い が、"伝統"でも"文化"でも「金儲けですらない」という本末転倒を生む。
なんちゃら協会とかなんちゃら団体が、技術だけのなんちゃら賞を与え合って内輪でキレイゴトロジックを組み立て慰め合いながら、作品にくだらん値打ちをつ
けるからエンドユーザーまで思いが届かない。現実でしょ?だって年々クリエイターのエゴを食わされてるもんね(筆頭は家電メーカーやCMや
TVコ ンテンツ、カクテルもか....)。
メーカーや創作者たちや「表現」を忘れた「表象」者たちは、どんな社会でどんなヒトをどうハッピーにするかをジョブズみたくグランドデザインしないと残念
ながら才能の 浪費です。だって僕 ら庶民はそれらであまり豊かにしてもらってないし現実この20年暗い社会で停滞してるじゃん(実存)。
「付加価値の創造」とか「ギャラがランク(地位)」とか「価格がブランド」はやめれ。そのかわり補完する「プラットホーム」を創造すべし。
要は、入
れ替え可能か不可能かよく見極めて、入れ替え不可能な我々の"モン"を、入れ替え可能なトコロで、どう表現して、ヒ
トに、世界に、どう伝えていく か。
そしてグローバル社会ではキレイゴトは一種利権なのでいかにエゴ少なくしてみんながハッピーになるかがだいじ。
入れ替え(可換)可能、入れ替え不可能(不可換)の話をしている。
日本人は入れ替え不可能が多すぎる。(.....歴史的には必然だった。でもそれは市民社会じゃない時代まで)
不可換域が多すぎて排外的 排他的になる。すぐ2項対立(脱構築にもならない)してしまう。
保守はいいけど日本の思い込み保守たちはいったい何が守りたいのかわからん。
愛国心をいうが多くは愛"国家"心でしかなく愛"国民益"心は希薄だ。
ナショ ナリズム とパトリオティズムやな、日本にはナショナリズムしかない、否、必要なかった、最近までは、ね。
僕は、国家は、入れ替え不可能な日本の風土や一部の慣習や言語
や芸術や文化な
どを守るため、国民の 健康 や自由や居住コミュニティを守るための「装置」でし
かないと考える。それを統率するため の文 化的天皇制は日本の根幹で必要だし
政治家や官僚などエリートも国民のために最低限必要だが、みんなはそう思ってないかも知れないがこの国がやってきたセイシャインをつくるための、
戦争に動員するための「キョウイク」や、一部のヒトだけがハッピーな既得権益の保守やらは本末転倒。
なんでもかんでも日本の文化だ、歴史だ、伝統
だ、という不可換域の多すぎる「思い込み」思考停止の保守は、停滞を招いている。
ただ、もっと糞なのは入れ替え不可能なモンを入れ替え可能に「決めつけ」ちゃうサヨクなんだが.......
どっちも思考停止。挙げ句2項対立なんだから
そりゃ停滞するわな.......子どもやないねんから........
もっと可換域を広げていかんと、不可換は極力小さくせんと。
さて、可換性の話でまた余談の余談。
『おいしいコーヒーの真実』というドキュメンタリィ映画がある。
全世界で1日20億杯も消費されている石油に次ぐ巨大な国際的貿易商品のコーヒー産業の実態を、コーヒー原産国エチオピアで貧困に苦しむ農家を救おうとす
るタデッセメスケラという活動家の奔走を追いながら描くドキュメンタリィ。彼は生産者から企業、消費者までを徹底的に追う。高品質の商品を納
入し ても貿易 の不公正なシステムのせいで 、消費国
(ほぼ先進国)では1杯のコーヒーの値段が400円ほどなのに対して生産者の売値は1kg(80〜100杯分のコー
ヒーになる)わずか40円にしからなない。コーヒ農家の多くは困窮し破産して
いっている。
そんなカンジの話。
僕はこの映画を観てフェアトレード(twitterで僕はよく間違ってフリートレードって言っちゃってるみたいだが....反省)がいかに重要かを知っ
た。しかし、リテラシーをもって考えると、この話は2002年のコーヒー危機が発端で今はどうなのかという点、必ずしももコーヒー一杯の価格
と生 豆の価格を単純利益比較できない点、エチオピア国家の政治の問題、輸入者のリスクの問題等カンタンにアンフェアだとは言えない。
それでも僕がこの映画を取り上げる理由は、途中で描かれる麻薬栽培の実態があるからだ。栽培しても栽培しても儲からない農家がコーヒー栽培をやめて同じ土
地同じ農法で何十倍 も儲かる麻薬栽培をしはじめる、食うためだ、と彼らは言う。
つまり、フェアトレードは貿易経済の問題が中心ではなく、労働搾取、奴隷的労働環境というような人権の問題がキモにあるというコト。
ただ、残念なが
らフェアトレードというと人権団体が絡んでくるコトがあってそれはそれで資本主義を観ないのでウザいワケではあるんだが.....
僕がずっとデフレがあかんと言ってたのはこういう理由からだ。なので消費者つまり我々が少しでも生産者におカネが入るコトを担保した業者から購入するしか
ない。
僕は、グローバリゼーションが進むというコトは可換なので発展途上国にチャンスができると思っている。これは世界平和につながる。し かしカネ回りや独裁政
治や宗教民族問題を考えると、格差はどうやっても生じる、それを不可換なモンでどう補完するかが課題だとも思っている。例えばそれが共同体や近隣
コミュニティの再構築だし ODAやフェアトレードみたいな富の再分配的なモンかもしれない。
僕がTPPを仕方なく容認する一番大きい理由はココだ。
勿論、ISD、NVC、ラチェット条項をはじめいつかの日本に不利な条件設定もありそうので全面賛成はできない。
僕は、1994年NAFTA締結時カナダに住んでいたためその経緯をよく知る、それからずっと気にもして観ていた。やはりエゴのぶつかり合いになり最後は
強者USが強引に押し切るのも観てきた。それでもメキシコもカナダも経済は相対的に良くなっている。努力だし創意工夫の賜物だろう。
僕は、一国一国個別間のFTAやEPAを先に締結し、RCEPやFTAAPを完成させてそれをモノサシにTPPの話をすればいいのにと思ってる。
正直僕にはTPPの枠組みはでかすぎてよくわからない。フリートレードがフェアトレードにつながるかどうかもわからない。思考し努力するしかない。
なんせエゴを縮小して弱者を引き上げ争いを減らす手段として、フリートレードをフェアトレードに し
てみなハッピーが帰結であって欲しい。世界平和とはこういうメンドくさいハードルを飛び越えるコトなのだろう。リテラシーのない僕らはコーヒーを飲むコト
で コーヒー農家を麻薬栽培をさせているんだ、世界平和は遠い。
僕がこんな話をすると、俺には関係ない、そんなコト考えたくない、ちゃんと税金払って義務は果たしているからあとのコトは考えたいヤツが考えればいい、よ
くわからない、などというヒトがいる。僕は語弊を恐れずあえて彼らを「社会悪」と呼ぶ。だってそんなコト言えるのって何かの犠牲があるからだ
よ、 ホントいい国だねぇ.......まぁ確かにこんな話はイヤだろうが.......
さて、本題。
ハイっ今までは僕の"可換不可換見極め重要論"をアナタに押しつけてただけですよ。
あ、たまにこのコラムを褒めていただくコトがありますが、間違っても他のヒトに良いと言わない方がいいですよ、不勉強がバレますよ、だってほとんどがすで
に
どっかに書かれているコトだし、まぁつまりパクリなんですよねぇ、おまとめサイトみたいなモンですよ、あとちょっと僕が味付けしてるだけです。糞
みたいな文章を何かのきっかけになれば、と投げとるだけですわ。
では、本題はこれから。まあ考えながらゆっくり読んでみてくださいな。
今回は、アイデンティティの話をしたい。たぶん深くてまた長くなります。
僕は、"ほぼリベ"
なので完全にリベラルでもないしリバタリアンでもないしアナーキストでもない。 日本の不可換な文化や風土を愛している
のでこの国のコミュニタリア二ズムを重要視しているしできればコミュニタ
リアンになりたい。この国の共同体の再興も願ってい る。
でも、現状のこの国の空洞化した自由度の少ない共同体では日々息苦しいとカンジているし思考停止で共同体を信じている学生気分的なお気楽な大人たちを「社
会悪」だとす ら思っている。エリートや社会強者の搾取だともルサンチマン的に思うコトも多い。
この国はもう賞味期限が切れている。
新しくしようとしても旧い不可換が多い思考停止なオジサンたちが多すぎて身動
きできないし、人任せの若者は好きなコトはやるが文句ばっかで行動しないしヴィジョンもない、そして何より、国力の最も重要な人口が減る、すなわち、新し
くするパワー がなさすぎる。
国が成長すると少子化するのは通例だ。
そりゃ、子どもなんて産まず好きなコトしたいし、実際、子どもがいなけりゃ好きなコトできる国でもある。
どんなライフスタイルも認めるのがリベラルだろ、と言われるかも知れないが、それでも僕は子どもを育てるべきだと純粋に訴える、それはリベラルだからこそ
でもある。なぜなら、子どもを育てないライフスタイルは不公正だからだ。
それにしてもこの国は子どもを育てるのにおカネがかかりすぎる。
人口の多い老人を手厚く保護して子どもに予算をつけていない(50歳以上は貯蓄高が世界一、選挙対策やめろ)、行政は未だに両親揃っている家庭を
モデルケースにしている(ひとり親でも育てられる環境を)、学校制度が酷いので習い事など補完?するのに費用がかかる(塾補完が必要な制度っ
てど
うなん?)、など国が何の対策もしないのだから少子化も必然か.........フランスとか少子化の他国は膨大な予算つっこむくらいの大問題や
のにね(因みに、ちゃんと予算つけたらすぐ改善してる)。
ね、子育てしない人々がどれだけいっぱい税金納めたって子育てしてる人々よりは社会のためにも国のためにもなってないのわかるでしょ?人こそ国力、人こそ
社会(あ、僕ほぼリベです)。
世界の人口は膨張している、それは途上国が僕らのような生活ができるようになるまで人口増加は続くだろう、そして水もエネルギーも食料も不足する。そんな
世界に在っ
てこの日本という国は衰えていく、人口が減りひとりあたりのGDPは増えても全体では減る、今のままではそんな世界からはモノも買えなくなる、それドコロ
か僕の世代が全滅す るまでは今の若い世代 の負担はハンパない。
それはライフスタイル以前の問題だ。
ホントは子どもをつくらない選択肢は生物的にも文明的にもないのである。
ただ子どもを産めないヒトや
同性愛者たちの問題もある、勿論僕はけしてそのヒトたちを責めるものではない。
できれば養子を迎え入れて子育てはして欲しいとは思うが...........まあ、そんな方々もいるんだし余計に産めるヒトは産まないと。
余談ながら日本はいつから養子に抵抗を覚えるようになったのだろう?ついぞ何十年前までは"家"を継ぐ墓を守る跡取りで養子というのがあったのだ
が.....こうい うトコにも今の共同体が崩壊しているのが観えるね。DNAを重視しすぎて人間愛は失ったんかな?
僕が言いたいのは、このままだといくら保守がエラそうなコト言ってたってこの国は体をなさなくなる、というコトだ。
日本人はユダヤ人に似ているトコがあると僕は思っているから国を失っても民族としてはドコでも誇り高く生きられるかも知れない。実際僕の知る日系移民たち
は各国で 素晴らしい日本文化を継承してくれている。でも、僕はこの風土が好きだからやっぱこの国をなんとかしたい。
僕は、移
民の受け入れももう視野に入れるべきだと思う。
なんでもかんでも受け入れればいいワケではないが、残念ながら、日本は先進国の中でも移民受け入れの少ない希有な国だ、帰化人や結婚による移民以外では年
間100人くらいだろうか。
日本はなぜだか単一民族ファンタジー
なので"外国人"に抵抗がある。"外国人"が増えると犯罪が増えるとまぢ思っている(実際には日本人の方が相対的に率は増加している)、勿論、養子も
日本民族でないとダメ、といろいろ不安が先行して寛容さがない、そのくせ韓流や舶来ブランドに憧れはあるんだよね。
確かに、フランスをはじめヨーロッパ各国が移民政策で苦しんでいる、モメているし移民規制もし始めてる国もある。多くは旧植民地の国民を労働力として移民
させているのでコトバの問題もあ まりないのだが、どうしても低賃金なので格差が生じるし、例え移民で成功しても軋轢が生じる。
思い出されるのは2006年W杯決勝フランスvsイタリア戦時、ジネディーヌジダンがマルコマテラッツィに頭突きをして退場になった問題。多くの日本人は
意味が分からなかったろう。あれはジダンが
アルジェリア移民2世というのをマテラッツィが卑下したコトが根底にある。ジダンが人気があったのは、技術や実績もさるコトながら旧植民地からの
移民 の成功者という"希望"だったからである。それを支配国出身者たちは深層心理のなかでよく思っていない。
余談だが、僕はポストコロニアルに興味があっていろいろ自習したが、植民地と支配国の関係は僕らが思っている以上にフクザツで文化の変化が興味深い、僕は
ココに可換なグローバリゼーションの波に対処する術があるとカンジている。
もひとつ余談だが、ポルトガルは最近ブラジルのポルトガル語を評価しているらしい。昔ながらのきちっとした文法やら言葉遣いが残っているかららしいが、破
綻寸前のポルトガルが高度成長中のブラジルに歩み寄る逆転現象はポストコロニアルの研究材料として非常に興味深い。
さて、僕は移民で一番理想的なのは、日系移民の子孫つまり2世3世の移民だと思う。ポストコロニアルは関係ないし日本人がルーツなので通じやすい。
中でももったいないなと思うのは、日系ブラジル人たちだ。彼らはバブル期に安い労働力として来日し当初出稼ぎだったのが定住・永住を認めるまでになり
2007年 度にはその数
32万人にも達している。しかし、リーマンショック以降日本国内の不景気により雇用が減少してしまい2012年度には20万人を切るだろう。そのうえコト
もあろうに政府は帰国支援金を払い彼らの帰国を促進している、お払い箱だ。まぁ結果論を言えば帰った方が本国の好景気でハッピーかも知れない
が。
日本人がブラジルに渡って105年、彼らの大和魂は伝承され、魂を忘れつつある日本
に逆輸入できるチャンスだったのに......
僕はこれを日本の失政だと思っている。日本は移民の道を自ら閉ざしたのだ。
まぁあと良いと思うのは、"高機能移民"
の受け入れという手。高機能移民とは、技術のある生産性の高い優秀な人材だけを招聘するコト。先日も、USではザッカーバーグがそのための政治団体つくっ
てたね、カナダでもスタートアップビザと称して整備してた。
しかし、今の日本、エリートたちが好き好んで住んでもらおうと思っても何の魅力もないだろうね、泥舟には誰ものらない。
というワケで、移民を受け入れるとしても日本はその態勢が整っていない現実。
だから日本人は世界の一員だというタチイチに乏しいのかもな。
移民を念頭において、ちょっとアジェンダがてらアイデンティティにアプローチする。
僕は前々回、 帰
属のレイヤーの話をした。行動のレイヤーをいくつか分けてめくっていくとやっと"自己"がでてくるがまたいくつかの帰属のレイヤーで左右されるので"自
己"ってなんだって話。
以下引用。
"自己"には
こんがらがったレイヤーとも
呼びにくいようなモンがある、思想的な部分が増え社会との関係性がでて、宗教やアイデンティティも重要となり、行動行程(ロードマップ)
を除ければヒトは、いくつかの帰属に支配されている。ややこしい。
例えば、
エスニック(民族)アイデン
ティティのレイヤー。
ナショナル(国家)アイデンティ
ティのレイヤー。
近接共同体(コミュニティ)レ
イヤー。
家族のレイヤー。
社会や政治へのコミットメント
のレイヤー。
宗教のレイヤー。などなど、非
常にややこしく繊細な部分である。
レイヤーに分けて1枚1枚それ
らをめくってモノゴトを考えると、いろんなコトが観えてくるというコトだ。ココでもリテラシーが 必要となる、自分を疑う自分
リテラシー。
ヒトは自分の中にいろんなレイヤーをもっている。これを分けて観ないと観誤って排外的になってしまう。たとえ観えていたとしても可換不可換のライン引きで
きないと結局排外的になる。
海外に出ることがなく、共同体の幻想の中で思考停止している日本人は、エスニック(民族)アイデンティティとナショナル(国家)アイデンティティが区別で
きない。日本人は単一民族ファンタジーで
この国はネイションステイト(国民国家)だと思っている。これは国民国家の幻想は徳川封建制度のクニから大日本帝国の国家へのインセンティブだったろう。
未だに それ
を信じるから気持ち悪い。なので、多くの日本にいる日本人は自分がマジョリティで在るという感覚がない、逆に海外で生活するコトもないためマイノリティの
感 覚はもっとない。不可換性はココからきている。
因みに、ナ
ショナルアイデンティティは入れ替え可能でエスニックアイデンティティは当然入れ替え不可能だろう。
日本国民であるというのと大和民族であるというコトの違いだろう。「日本人」というのは両方を指せるコトバだからややこしくなる。
梅棹忠夫はいう、民族というのは文化的概念で、それに対して国民というのは、いわば政治的概念です、と。
僕はヴァンクーバー在住時、沖縄移民の方々に大変世話になった。彼らは酷く苦労して必死で生活しているにもかかわらず日本の文化や沖縄の文化を僕ら以上に
だ いじにしてくださっている。彼らは自分たちのコトを、"オキナワン ジャパニーズ カナディアン"
だという。日本語にすると、島人(民族)で日本人(民族)でカナダ人(国籍)というコト。最後の国籍のトコロはノマド的な人々はコロコロ変わる。これが、
グローバル社会の可換性を表す。
華僑はドコの国に行ってもチャイニーズって言われちゃってるけど国籍は各自一応もってる。
在日韓国朝鮮人の方々が 経緯上
日本国籍をとりたくないのも理解できる、しかしグローバル社会では国籍なんて利用するモンで、エスニックアイデンティティがプライドであればそれでいい、
帰化(僕はこのコトバが好きではない)するコトを嫌悪しても得はない(あるの?)。
ナショナルアイデンティティとエスニックアイデンティ
ティを混同するコトこそ可換不可換のライン引きが間違っている例である。
レイヤーに分けて考えなければタチイチを見失うし結局損しちゃう。
余談だけど、大阪の大正の沖縄人たちは "おきなにわん"
として新しいアイデンティティを模索しているのは興味深いし、アイヌ民族党の動きも注目だ。
批判炎上覚悟で僕のタチイチをいう。
僕は自治は近隣で行い(道州制みたいな)、他は、ガンダム00の当初の設定のように世界は3つか4つの大きな共同体が
できていくべきだろうと考える。これは南洲翁のアジア主義や蘇峰の大東亜共栄圏や鳩山の東アジア共同体にも多少通ずるかも知れないが、アジア各国で補完し
合わ ないとエネルギーも含め自国の利益追求だけでは戦争しかなくなる。
要はコミュニケーション以外ないのである。
僕は国連主義的なモンとEU(通貨統一は順番的には最後で良かったのにね)がこれからのひとつの社会モデルだと思っているが文化多元的要素も少ないし今の
トコロ成熟に至ってはいない。
エスニックアイデンティティとナショナルアイデンティティの落としドコロが重要となってく。
僕はほぼリベなので、お互い言いたいコト言い合って最終的には落としドコロを見つければ良いと思っている。なので2006年の日中間の戦略的 互恵関係からの白樺共同開発(今は頓挫)の流れは評価している。
領土の問題も考え方は同じ。日本固有のとはいつの時間軸でいっているのか?竹島は政治的で論外だが、厳密にいえば尖閣は琉球民族、北方領土はアイヌ民族の
土地だろう。どっちにしても戦争なんてしても意味ないから主張はし合っても「ソフトボーダー」の発想で利益を共有するしかない。
そもそも僕は共通の歴史認識なんてのはムリだと思う。
以前も述べたが多くの歴史は勝者のつくったの歴史だ。敗者は言い分も認められない。
日本は負けた側への温情の美学のある独特な争いの歴史があるため古い書物にも負けた側の論理を読み取れるし、先の戦争でも完全な植民地になったワ
ケではな かったので、希有なコトに、結構な記録が残っている。(まぁこれが他国とモメてる要因でもあるのだが......)
なぜなら、中国は文化大革命の時過去の歴史
を捨てたも同然だし朝鮮半島も近年まで安定した政権国家が持続してこなかった、それらのいう正当性と日本の正統性を共通認識とするにはムリがあると思う。
タチイチとして僕は、軍の清国への傀儡はあったと思うし、南京大虐殺も虐殺はあったが30万人も殺すのは不可能だったと思っている(5万人もいないのでは
ないかとも)し、 朝鮮人の強制連行もまぁあるには
あったろうが少数でほとんどが出稼ぎの域だったと認識している(なので移民ではないのかと)し、慰安婦はいても「従軍」の慰安婦には懐疑的だ(あったとし
ても軍全体でなくそれぞれの地区の判断ではないかと。日本人にせよ 朝鮮人にせよ
女衒がいたろうから彼らの責任の範疇だと思う)し、創氏改名も強制ではなかったと思う、だからこういったコトを根拠にした参政権付与には反対、ならばアイ
ヌ民族党の方法論がある、あと 少なからずやったコトはやった 迷惑もかけた
ので戦争のせいと言い分(ほとんどの戦争は侵略戦争やし)はいろいろあるとはいえ謝罪すべきトコは謝罪しないといけない。が、カネは
もう十分すぎるほど払ってきた(賠償としてではないのが問題)し、鉄道等インフラも戦争遺産なんだからそれらを現在使用している限りそこまでクソミソ言わ
れる筋合いもない、それと、僕は神道はシンプルなので特に問題ないが神社神道は可換可能だと思っているので今の靖国神社の運営はあまりよく
思って いない、
できればアーリントンのような施設(すでにありますが)が好ましいが、僕は英霊を慰霊するコト事態は宗教や国家なんて枠組みを超越しているので、
(感情レイヤーとして
は理解できるが)中国や韓国がとやかくいう性質のモンでもないしそれを政治利用するコトの方がさもしい、というタチイチ。また、朝日新聞や日教組
や旧い学生運動的サヨクたちの侵略戦争反省的自虐史観こそこの国のアイデンティティの成熟の妨げ
になったモンで糞だと思っているし、逆にその反動でエスニックアイデンティティとナショナルアイデンティティとを混同する新しい教科書的思考停止保守たち
に「歴史」を 言って欲しくないとも思っている。
僕はこんなコトいっちゃうから攻撃的に観られるんだが、誤解です、そういうのを踏まえたうえで「落としドコロ」を見つけようというておる。
先日も新大久保の在特会の朝鮮人へのヘイトスピーチデモがあったが、僕もあいつらは糞だと思うが、あのデモを排除するのもどうか、とも思っている(それは
表現の自由を守るためとかそんなたいそうなコトではないとは言っておくが)。これが僕のほぼリベ的タチイチです。
なんせ歴史の共通認識なんて、司書資料の交換こそあれ、やめた方が良い。
スキキライあってもいいし言いたいコトも言い合ったほうがいい、でも妥協ではない「落としドコロ」がだいじ。
サッカーナショナリズムというコトバがある。
僕はエンターテインメント同様スポーツも可換可能で世界平和の良い手段だと思っている。戦争したいなら殺し合わずにスポーツで代替して争えば良
い.......なんて書くと、勝利至上主義を助長していると言われそうだが。
中でもサッカーはアイデンティティを顕著に表す。
ジャーナリストで作家のアーサーケストラーは「ナショナリズムとサッカーナショナリズムが存在するとき、サッカーナショナリズムの方が強く感じられる」
と指摘している。ケストラーは誇り高き英国市民であったがハンガリー出身で生涯ハンガリーのサッカーナショナリストであった。
サッカーナショナリズムはエスニックアイデンティティが根幹にある。
象徴的な話がある。
2002年のソルトレイク五輪のスピードスケート
ショートトラックで米国選手の妨害で韓国がメダルを逃し猛抗議した、当時在韓米軍の起こした事件も重なり反米感情が沸き上がり、韓国内では星条旗を燃やす
ほ どの騒ぎとなる。その年6
月、日韓共催W杯 アメリカ対韓国戦時
スタジアムは凄まじい興奮に包まれた。そして韓国選手がゴールを決めた時、選手全員でピッチ上でスピードスケートの物まねをした。
ショートトラックの雪辱を晴らした、というパフォーマンスであった。日本人にはこの感覚が理解できなかったろう。
韓国人のナショナリズムはこのときに頂点に達したと僕は思う。
韓国(朝鮮 民族)は歴史的にずっとどこかの属国で、日韓併合くらいの時期一瞬自我が芽生え始めた気配があった がウマくいかず、ソウル五輪
くらいから少しづつ再び自我を形成したが、97年に国家破綻寸前までになり消沈、IMFに救済される、2001年IMFから自立し、この2002年やっと
アイデン
ティティの確立を観たカンジだ。なので韓国がエスニックアイデンティティとナショナルアイデンティティを混同しやすいのも仕方ない。サムソンが貪欲に世界
に出、竹島を意地でも彼らが象徴とするのもこういうパッションだ。
同じく中国も
歴史が長いというものの今の中国というアイデンティティは毛沢東後だろう、いや今のアイデンティティは天安門後経済開放路線後かも。
つまり、両国とも実はナショ ナル
アイデンティティが芽生えたのがここ最近だといっても過言ではない、その流れでエスニックアイデンティティも形成されている。
だから、しつこいくらいの反日感情も成長の手段的な反日教育のせいだとはいえ仕方ないのだと思う。先進国に嫌われがちの彼らは、今、やっと自分たちの「国
家」 を手 に入れ、「愛国心」が隆盛したのだ。それは、ユダヤ人がイスラエルを手に入れ排外的になったのに少し似ている。
嫌韓嫌中の日本人はひょっとしたらそのアイデンティティの開花が羨ましいのかもね、日本は仙人みたいな老人だからなぁ......情熱に羨望?
まぁでも、できるなら感情のレイヤーと、エスニックアイデンティティのレイヤーと、ナショナルアイデンティティのレイヤーと、グローバル経済のレイヤーを
分けて考えて もらわんと戦争になっちゃうよね。
えてして感
情のレイヤーなんてのはたいてい邪魔なんだ。
余談だが、僕はサッカーは、今の社会の、いや、世界の、モデルだと思っている。
最初は英国的ルールづけたきちんとしたサッカーからはじまり、南米のタレントだけのサッカーに変わり、オランダやドイツが戦略的組織立ったサッカーを生み
出し、イタリアやフランスで少しタレントサッカーに戻り、そして今、スペインサッカーが金字塔を打ち立てた。
今のスペインサッカーとは何か?
僕はグローバリゼーションのひとつの象徴だと思う。
世界のサッカーが成熟し各国のレベルが僅差になってきた今、タレントたちはエゴイスティックに貪欲にプレイするが、エゴが強いとまとまらない、それを監督
の哲学
でギュウっと押さえ込む。サッカーほど監督が変わっただけで1試合でチームが変わるというスポーツもないだろう。選手のレベルがさほど差がない今、哲学こ
そ 化学反応をインセンティブするのだ。
社会も同じだ、一昔前は終身雇用年功序列で上司のいう通りに働く日本の共同体的"カイシャ"が一時期世界のビジネスモデルだった、ドイツサッカーみたいな
組織プ
レー。今は、エゴな、昔でいう「出る杭」たちがポジションをコロコロ変え、トップをいくニンゲンの寛容さと哲学によりイノベーションしていく、ま
さに流動的なスペインサッカー。だから、サッカーの監督みたくCEOはコロコロ会社を変える。社長職人だな。日本みたいな生え抜き社長は少な
い。
ましてや同族経営.......僕は以前も述べたかも知れないが、会社、特に日本の会社や組織はすぐ淀むし腐るので時限制にした方が流動性を担保
できると思っている。勿論、そのためには再チャレンジや機会の平等など寛容さが必要だが。
今、ほとんどの国でスペインサッカーみたく流動的なサッカーになっている、これがグローバリゼーションだ。ただ、オモシロいのはドコの国もスペインみたく
なっているのかというとそうでもない。ドイツなんかは流動的でありながらちゃんと組織立ったプレーを哲学に含ませる、つまり不可換な自分たち
の個
性をグローバリゼーションの中で表現しているのだ。日本は、サッカーこそ世界にタレントが飛び出したためかろうじてグローバリゼーションの中に身
を置けたが、日本の社会は未だに可換不可換を見極められず滞ったままだ。
日本は韓国や中国とは違いアイデンティティの確立は早かったが(神仏習合とか封建制度とか天皇のおかげ)エスニックアイデンティティとナショナルアイデン
ティティがほぼ
同義で扱われてきたため可換可能域が少なくグローバリゼーションに弱い、「黒船来航」の前例の通りだ。今の政権がかろうじて世界にアプローチしはじめてる
(哲学的には微妙だが)。
グローバリゼーションが世界を駆け回りエスニックアイデンティティの不可換性を可換なスポーツやエンターテインメントで表現していく。僕はこれで世界平和
をインセンティブできると思っている。
エスニックアイデンティティとナショナルアイデンティティは、可換不可換論でライン引きできると先ほど述べた。そこをレイヤーで分けて考えないからいつま
でも争いごとが続く。何枚かあるレイヤーのうちひとつでも共有できればいいのにね。
少子化から移民の話を続ける。
カナダは移民の国である。
世界で2番目の国土に3500万人弱しか住んでいない。同じく移民国家のUSが3億人いると思えばまだ少ない。カナダを地図で見てもらえばわかると思う
が、国境付近にしか大きい都市はない、北は寒すぎるからだ。ファーストネイションズが4%、当初入植の仏英系が3割程度と考えても、6割以上
はそ
の他の移民だ。まだ若い国なので移民を受け入れないとやっていけない国でもあるようだ。僕はそのカナダに2年近く住んだ。そしていろんな国からの
移民たちのおかげ で世界を知った。
僕は人口の減ってきた日本は移民を受け入れるしかないと思うしカナダは移民との共存のひとつの良いモデルになると思う。
カナダは、1971年に ピエールトルドー首相が「多文化主義宣言」をする。これは1982年に完全に独立するまで女王の国だったカナダ
で当然多数派で支配的な英系に対し 先に
入植した仏系が1960年代に対抗し始めた"静かな革命"や"ケベック(フランス語圏)独立"の動きからの「二言語二文化(英仏)政策」が動き出しその後
英仏以外のマイノリ ティが反発
し「二言語の枠内における多文化主義」に落ち着いた結果の宣言でもあった。興味深いのはトルドーはケベック人だという点だ。エスニックアイデンティティ
とナショナルアイデンティティの利害の違いもわかる。因みに最近では1995年にケベック州独立の住民投票が行われ否決している。二言語多文
化を 自決し邁進 するカナダですらこうだからタイヘンだ。
さて、多文化主義を謳うカナダではあるが、僕はカナダに住んだ経験上感覚的にいうと、ケベックの存在以外は多文化主義ではなかったとカンジている、どちら
かというと文化多元主義的だったと。ケベックは独立したいのであくまで多文化主義のにおいがする。
今から書くコトは哲学的にも学術的にも定義が曖昧領域なので僕の感覚というか持論として読んで欲しい(デューイやカレンやテイラーやウォルツァーあたりが
詳しいと思うが)。
多文化主義とは、いろんな民族が同じ場所で暮らすんだから多様にお互いのやり方を認め合っていこう、というカンジで、フランス革命後のネイションステイト
(国民国家)からのモノカルチャー化、帝国主義的植民地拡大からのポストコロニアル、グローバリゼーションの始まりからのヒトの移動の自由な
どの 流れで、冷戦の中の"平和"な社会の"落としドコロ"として60年代から始まったムーブメントのひとつと僕はとらえている。
USなんかは
"るつぼ"的多文化主義で寛容ではあるものの民族間の摩擦が多いように僕は思う。言うなれば「好き勝手感」かな?
文化多元主義は僕的にいうと、自分たちのやり方ではやろう、そして多様に他のそれの尊重もしよう、でもお互いこのコミュニティをつくってくんだから気は使
お
うよ、ってカンジで、少し共通前提があるカンジ、元々は多文化主義より旧い概念で、USみたいな世界の大親分みたいな権力の手のひらで自由にやれ
よってカンジだったが、昨今
では親分ではなく"共通の認識のうえで"というカンジに変わっている気がするので僕は多文化主義より良いと思っている。「秩序感」かな?
日本で文化的多元をいうと
「同化」といわれがちだけど「同化」とは少しイメージが違う、そこは説明しにくい難し〜いトコロ。
カナダはカナダという国を一緒につくるという感覚があると思うのでUSよりも多元的だと思うのである。
余談だがどっかの学者が以前、文化多元主義というのはディズニーランドみたいなモンだといっていた。トゥーンタウンとかトゥモローランドとか多様な街が存
在し、それぞれはさほど互換しないがヒトは自由に行き来できる、ドコからでも象徴たるシンデレラ城が観える、誇りだ、そんな中、地上の多様な
街の 下では、エンターテインメントの
裏方、物流、下水処理、ゴミ処理など共通のシステムがマルチレイヤーで存在する。
そして、その下層のネタを侵すモンは許されない。ディズニーランドで楽しむという共通認識。シンデレラ城の意義は、憲法か国王(天
皇)か純粋に風土かもしれない。
この文化多元主義的なカンジが僕のカナダに対する見立てであり日本の向うべき方向だろう。このイメージ。
僕は少子化でタイヘンなこの国にはそのカナダを手本とする移民(日系の移民,高機能移民など)受け入れ政策が必要だと思っているが、現状この国の民は移民
に
抵抗がある。そしてその対処としての提案が、リテラシーを磨くコトや可換不可換論であり、エスニックアイデンティティとナショナルアイデンティ
ティ の認識及びレイヤー分けの習慣であり、文化多元主義の体現であろうと。
結局のトコロ、僕は若い頃世界を歩いて、国境や国籍なんて人生では大した意味はない、人と人は何も変わらない、コミュニケーションとれば解り合える、とカ
ンジた一方、自分の身近なコミュニティは必要でそれを保守補完する国家は最低限必要、いろんな人のそれぞれのなりわいをリスペクトするコトも
必 要、譲れない自文化保持はだいじ、と思い今に至る。矛盾も孕んでいるが プラグマティックにやるしかない。
そのためには前々回に
僕が提案したような思考のプロセスはだいじだ。
今この国はある意味、思考停止でアノミーだし遊びも少なくリテラシーがなくタチイチがわかってないためすぐ2項対立して息苦しいとカンジるコトが多いし、
それをいう
とネガティブに誤解されてしまいウンザリする。僕がこうして社会にアプローチするのを不思議がるヒトもいる。今ハッピーだからいいじゃん的な無関
心に出くわす。僕は彼らを「社会悪」と呼ぶ。
だってさ、もっ
とみんなそれぞれで思考してポジだししていけばみんなでハッピーになれるのに、なんで自分だけになっちゃうん だろう?
さて、長くなってきたが最後にもう一つ僕が最近気なるコトを書いておく。
昨今の流行りコトバで「ブラック」というのがある。僕の知る限りほとんどの飲食業はブラックだ。こき使われて中には死んでいくヤツらもいる。飲食業のビジ
ネ
スモデルは既に破綻している。そりゃそうだ、消費者からWeb上で一方的に批判され、280円の商品を売り、千円そこそこで呑み放題とか、それで
人件費出そうと思ったら従業員に夢見させてこき使うしかない、そんな業界の改善を促す機関もない、本来なら、なんちゃら協会とか組合がやるべ
きだ
がやらない、飲食業から政治家もほとんど出ないのでアジェンダもない、初期設備投資が多いため店を閉めると負債が多く、経営難で閉店するとみな借
金、一度失敗すると二度と再チャレンジの機会はもらえない、特に金融機関からは.............みんなは聞きたくないかも知れない
が、 これが現実です。我々飲食業は社会的弱者なのです。
だから富の再分配をお願いします、なんていったってはじまんない、付加価値つけてブランディングしろ、っつったってはじまんないんだ。
とりあえず知って欲しいのはバーに来ているお客さんの多くは社会的には強い立場にいるという
コトです。バーテンダーに叱られてるコトを恥と思って欲しいしもっとしっかりして欲しいと思います。そして、僕が気になるのは、みなさん自分は弱者サイド
だと思い込んで強者サイドのタチイチに気づいていないにもかかわらず、なぜか"ウエカラ"なのです。口コミサイトもそうですし、政治の話する
とき もです。
僕は今の社会は"ウエカラ"だが、 これから先は
"シタからウエ"への能動性が重要ではないのかと考えている。
例えば教育も。
娘の参観にいっていつも気になるのは教師がウエカラ教えている構図、会社も同じだろう、日本の年功序列旧共同体の名残り。これではイノベーションしない。
ベンチャーもでない。
ウエカラの教育は、(旧)共同体適合者育成であり、セイシャイン育成であり、戦争動員の下地であり、旧いオジサンの阿呆の感染でしかない。政治もそうだ、
リーダーシップも必要だ
が、それよりワークショップ的提案型でないと、リーダーやカリスマに依存して思考停止で牽引されるのも先ほどの教育の帰結に同じで危うい。
僕は国も会社も教育も自分から利用していかないといけない時代だと思う。否、利用できる時代だ。
昔のように受動的にウエカラを受け入れていてはブラックに利用されて死んでいくだけだ。
つまり、社会的強者ほどもっとウエの強者に挑んでいかないといけないし社会貢献できない。そういった責任を自覚し弱者には再分配してほしい(希望)。
弱者諸君も"ウエカラ"に負けずに、強者をウマく利用して「弱者でもハッピー」を模索しようではないか。だってさ、明治維新なるモンは、当時の社会的弱者
から のムーブメントだったのだから。
ウエカラシタの時代は終わった。シタカラウエの時代なのだ。
そう考えると、今この国の抱えている問題が観えやすいと思う。
では、そろそろまとめる。
今回は、流動的な世界でのタチイチ(アイデンティティ)の確認の仕方だった。移民という課題を通して、アイデンティティとは何か、どうレイヤーで分ければ
良いか、ドコまで譲ってドコまで守るか、を観てきた。
僕は、国家なんて必要最低限でいいけど社会は大きい方がいいと思ている。国をミニマムにすると国が何もしてくれない分
自分で能動的にコミュニティをつくっていかないと孤立死しちゃう、だから普段からいろんな帰属を、いろんなコミュニティをもっておかないといけない、そう
するために は寛容さや他への理解や可換不可換のライン引きも必要となる、そういうインセンティブを僕はしているのです。
「社会悪」にならぬよう、能動的に、思考しよう、 想像しよう。
前々回僕 はこう閉めた。今一度、
アナタが少しでも何かからの依
存をやめていろんなモンにリテラシーを持たないと、アナタ自身も世界 もハッピーにはなれない。
もう一度タチイチを確認してみて欲しい。
ひょっとしたら違ったゴールが観えるかも知れない。その時はその時で考えよう。
とりあえず自分を疑いもっと目を観開こう。
感情のレイヤーをめくり二項対立を避け、ロードマップを作って歩き出そう。
途中、道に迷ったらバーで酒を呑めばいい、バーはアナタの行く道を明るく照らしてくれるハズだ。対処する術も見つかるだろう。
みんなで酒を呑んでハッピーになろう。
僕らは今、大きな大きな流動的な世界に呑み込まれていっている。
僕は自分が誰で自分が何をするのか知っている。
だからこそ僕は今、この時代に生きれてホントにシアワセだと思うし、"これから"を想像するだけでスゴく興奮している。そしてできればみなでハッピーにな
りたい。
ジョンはこういった
imagine all the people living 4 today.........living life in
peace.......
U may say I'm a dreamer. but i'm not the only one. i
hope someday U'll join us. and the world will live as one.
僕も同じコトを想う
imagine
all the people
sharing all the world.
imagine
この数ヶ月いろんなだいじなヒトたちがまたアウトローを去った。
僕はいつも彼らのコトを想っている。縁は繋がっていると信じている。
それが僕の一期一会............
2013.5.16
加筆修正(大阪市長発言を受け)