★2014.5.2 virtual
insanity
この国の民は良くも悪くも「お祭り体質」で、みな日々いろんなムーヴメントに忙しい......マラソンやらサムラゴーチやらオボカタやらいいとも!
やら某大統領来日やら......
僕はこの「お祭り体質」を弊コラムで常々危険視してきた。大袈裟に聞こえるかもしれないがそれは戦争動員に繋がるという危惧からだ。歴史的にそういう傾向
が この国にはあると思う。「空気」だ。
しかし、「お祭り体質」はけして悪くはない。むしろ、善い。
この国が温和な共同体を築いて千年を超える「皇制国家」ファンタジーや「近代国民国家」ファンタジーを維持し
続けるコトができたのもこの「お 祭り体
質」が大いに影響している。政治を「マツリゴト」というのはならではの表現だろう。僕が重要視してきた地域コミュニティがそれぞれの特色を持つのも「祭
り」に依るトコロが大きい。世界中がショッピングモール拡大で均一化(アメリカ化)していっている時代に於いては「祭り」こそがローカルを象徴す
る。その点で「秘密のケンミ ン
SHOW」みたいなTV番組が全国で支持され続けているのは誇らしい。要は、お気楽な和と排外とのバランスあるモチヴェイションなのだ。
「祭り」自体は若者のモンだな、と最近個人的によく思う、僕も少し年をとったんだろうね、めっきり流行モンに絆されなくなってしまった。それはあまり良
いコトではないと反省する、「祭り」を冷めて観てはいけないと。踊ってなんぼやからね。そしてそれが新しい文化にも成り得るんだから。
踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損 損、って功利主義かっ、なんて穿ったコト言わんととりあえず踊ればいい。
余談だが、阿波踊りといえば、僕がここ7~8年注目しリスペクトしている徳島出身のクリエイターの猪子寿之氏がいる。
彼のつくったチームラボはテクノロジーとアートで社会に世界にコミットしている。
僕は昨今の哲学もないグランドデザインできないキレイゴトデザイナーより能動性でインセンティヴできるアーティストの方が社会を変革できると考えているの
で、猪子氏のアプローチこそが今の社会に必要だと考えている。特に、教育界や地域コミュニティにこそ彼らのやり方が手本となるだろう。何よりチー
ムで各自の特徴を駆使して発信しているトコロが重要なポイントだ。教育者や行政の方々はくだらないコンサルティングする有識者気取りの利権野郎の
意見を聞くより彼のチームのやり方を観た方がいくらか役に立つと思う。
チームラボが昨年から今年はじめにかけて
シンガポール ビエンナーレで発表した阿波踊りを下敷きにした作品「秩序がなくともピースは成り立つ」は、★2013.4.27 imagine
で僕なりに必死に説明した文化多元主義の本質を痛快に表現していて正直感服した。
それは、暗い空間に透明なスクリーンをいくつも設置し、農民や侍や僧侶や鳥獣戯画を思わせるウサギやカエルなど56体のCGキャラクターをソコへ投影、周
囲を鏡で囲み、それらが無限に続くような幻想的な空間が広がる。そして各々が掛け声や歌声や手にした楽器で好き勝手に演奏しはじめる、思い思いの
リズムを刻んだ登場人物たちが、やがて周囲に影響を受けて“ひきこみ現象”を起こし、全体が巨大な演奏となる瞬間を迎える。暗闇に浮かび上がる人
と動物たちの非現実的空間で、高揚、歓喜、解放の空間の中をゲストが歩きまわって鑑賞することができる、という作品だ。
以下、この作品への憶いを猪子氏のwhite-screen.jpのインタビューより抜粋引用させていただく、
『僕は徳島県出身で、小さい頃から今でも毎年阿波踊りに参加していて、その中での観察が本作のベースです。阿波踊りはそれ
ぞれ“連”と呼ばれるグループに分かれて町中を練り歩くけど、グループや、主要な楽器(大太鼓、小太鼓、笛、三味線)以外は何のレギュレー
ションもない。むしろ楽器も持っていなくて、スピーカー抱えて踊ってるだけの“連”もいる。 もちろんテレビや他のメディア
で紹介される阿波踊りは、整然と通りを歩きながら踊っているけど、あれは本当の姿ではなくて、実際の阿波踊りは本当に無秩序。演奏も勝手に始
まって終わるし、なにか全体の号令があるわけでもなし。
例えば、若いグループは早いBPMで踊っていたり、逆にお年寄りのグループがゆっくりなテンポで踊っていたりする。だけどそれぞれの“連”が街の中で鉢合
わせになって、それぞれの演奏がなんとなくお互いのテンポやグルーブにすり寄って、融合していくんです。それでしばらく二つの“連”の演奏が
混じり合って、またお互い別々の方向に進んでいくと、緩やかに分離していく。街全体がひとつのグルーヴを紡ぐ瞬間がある。
たくさんの“連”が集まっても演奏がぐちゃっとなることがほとんどないのは、参加者がお互いのエゴよりも気持ちよさを優先するから
だと思ってる。西洋のオーケストラみたいに一人の指揮者が全体を操らなくても、阿波踊りでは秩序が生まれている。本作ではそういうリーダーな
きコミュニケーションと調和を、もっとプリミティブな形で映像とプログラミングを使って再現しています。
リーダーがいなくても勝手にみんなが行動しているのは、チームラボと僕の関係に似ているかも知れない。阿波踊りでは“連”のリーダーは単なるグループまと
め役であって、演奏の指揮をするわけではない。むしろ楽器も持たずに先頭をきって踊っているだけ、僕自身も単なるチームラボの顔でしかない
し。
本作の踊り手たちは、各々勝手に演奏して、やがて周りに反応して大きな演奏に繋がるのですが、それぞれにはパラメーターが振ってあって、常に全体の演奏を
BPMなどの平均値で演奏しているもの、つまり一番空気読んでいるやつが影響力が大きいように設定になっている。この設定自体は具体的に指示
したわけではなくて、僕のコンセプトを受けてプログラマーが独自の判断でやってくれたことで。本作に参加している数十人が各々独自の解釈で動
いてくれている。
もちろんチームラボという会社自体もそうありたいと思っているし、そうありえると思う。例えば、誰だって他人に相談をされると、応えたくなる。それが人情
だから、そういうもっと命令系統で形作られていない“社会”も“会社”ありうるだろうなって。
各々が好き勝手にやるより、みんなと一緒だと気持ちいいから合わせるっていうのは、実は原始的なレベルで組み込まれていることで、それが自然なことだと思
います。今回の発想のもうひとつのきっかけが、ホタルの“ひきこみ現象(Synchronized
Lighting)”っていうもので、ホタルは一本の木にいると、なぜか全く同じタイミングで点滅を繰り返すようになる。こういうシンクロだったり、コラ
ボレーションしたいっていう気持ちは、本能的なもので、ヒトも原始の、一番最初の集団生活はルールがなくても阿波踊りみたいにピースでハーモ
ニーに満ちていたんじゃないかなと思ってます。
東南アジアのお祭り、バリ、沖縄、徳島、タイにいったときに感じるピースな感じ。“秩序なきピース”は、もしかしたら昔のアジア全体の方法論だったんじゃ
ないかなと思っている。そこをヒントにして作りました。この作品は、表面的にはアジアにあるような踊りや、お祭りをミックスし
た、古典的な表現をしているけど、裏側は現在のネットワーク社会の有り様を象徴しています』
文化多元主義を「祭り」で表現している。ヴァーチャルインサニティどこ吹く風。素晴らしい。
秩序はなくともピースは成り立つのである。
彼のように教養と情報とリテラシーをもとに哲学をもちテクノロジーやアートで社会や世界にアプローチでき "表現"
ができるクリエイターはこの国ではホントに少ない。
因みに僕は次の東京五輪は是非チームラボに主導して欲しいと願っている。
話を戻そう。
僕が若かりし頃はネット社会ではなく今より時代の流れが緩やかでさほど多様でもまだなかったので同世代で同じ時代を生きた感があり、ソコにはみなが踊る
ムーヴメントがいくつ かあった。
世代論的に僕(71年生まれ)の世代は、「新人類」の後の第2次ベビーブマーで「団塊ジュニア」「ニューロストジェネレーション(ロスジェネではな
い)」「ジェネレーションX」と呼ばれる世代だ。
ノスタルジーがてら僕個人の通ったムーヴメントを記すと、少年誌(ジャンプマガジンサンデービッグコミック)、ファミコン、ラジオ、ガンダムなどのサブカ
ル系、レンタルレコード、レンタルビデオ、コンビニ、ファミレス、カラオケボックスなどの店舗系、ヨーヨー、キャラクター消しゴムorカード、
スーパーカー、ビリヤード、スキースノボキャンプやらのアウトドア、大阪ブルーズ、ユーロ ビート、DCブランド、日本
酒、バンド、小劇団、文学などの流行系 etc......まだまだあるある(景気が良かったからかな?)。
まあ、ホットドックプレスやらブルータスやらのバックナンバーの目次を観るだけでわ
かっちゃう、まさに「祭り」をメディアが煽動する例でもある。(先の戦争もそう だったなぁ.......)
僕の場合ガンダム、漫画などからの第2次アニメブームで声優に憧れエンターテインメントの楽しみを知りそのおかげで僕のその後のライフワークの
ミュージカルに出会ったし、DCブランドブームん時はセール時にブランドもんのたっかいシャツを学校サボってファイブだったか阪急百貨店だったか
を2周してでも買うほど
だったしメンズノンノなんか創刊号からかかさず読んでたし、バンドブームの時はバイト先のヒトらとバンド組んでBOOWYやらBONJOVIやら
のコピーやったりTo-yみたく対バンののっとりやってケンカしたりしたしいっぱいライヴや舞台もいったし、日本酒ブームの時は日本酒のバーで働
いて阿 呆ほど呑んだし、時系列バラバラやけど、文学ブームの時は当時の流行り作家の「W村上 2Y 」(龍 春樹 詠美
ばなな)を読みあさり、おかげでミシマと司馬遼太郎から開放され、哲学書も含め多ジャンルの本読みになった。
とりわけ、当時通ってたクラブ前夜のディス コ
のVIPで春樹の赤と緑のハードカヴァーの初版本を読んでいたら入れ喰いヨロシク女の子からモテた(もはや過去の栄光ですが.....泣)。ほとんどの経
験はさほど役にはたってないが肥やしにはなってて結構ハッピーにやってこれた。
因みに、僕はハルキストでは ないが初期の春樹(3部作と世界の終わり...と
ノルウェイの森くらいまで、ダンス...以降固有名詞にこだわりだしてからはあんまりになっちゃったがカフカは良かったな)は敬愛してる。ジェイ
ズバーこそが今も僕の理想のバーだ。龍も どちらかというと初期
の95年くらいまでが好きで、愛と幻想のファシズムらへんは文学っぽくはないが今でもスゴいと思うしエクスタシーからの3部作は似た経験があって結構ココ
ロに残る。詠美は外国の匂いのする初期の作品と
風味絶佳が文学してて好き。ばななは正直
キッチンとTUGUMIくらいしか読んでないが代わりにその流れで親父のはいっぱい読んだ、吉本親父のおかげで論壇を知ったといっても過言ではな
い。吉本,丸山,小室,
梅棹,柳田は当時ホントに勉強になった。文学ブーム前からミシマ司馬は愛読していたが現代文学というのをブームにのっかったおかげで体現した。そ
して、おかげで多ジャンルの本読みに なった。
余談の余談だが、昨今の文学や音楽(飲食業界もだが)などの多くのクリエイティヴは、売れにくいから仕方ないんだろうけど商業重視すぎるし、業界内輪ノリ
だ し、賞を
穫るとかそういったコトばかりにご執心で、作品自体のクオリティは悪くないが(というか技術は素晴らしく向上してるが)、ココロに響かない。まぁ確か
に僕の感性の劣化もあるかも知れない、でも、ホント響かない。
"表現" でなくエゴな "表象" だからか。
これって現代社会の大きな問題点なんじゃない?
コンサルティングやらマーケティングやらブランディングやら「先生」たちがウマくパッケージ化して良質にはなっていくけどなんか足らないし一過性が過ぎ
る。消費だ。消費されるモンを消費されるべくウマく造っているだけなのだ。消費は経済なので悪ではないが、何やってるかわからない徒労感に苛まれ
る。春樹風にいうと、やれやれ、である。
さて、10ヶ月ぶりに書いている。
近況をいうと、まぁ独りで広い店をやるってコトが如何にタイヘンかわかった歳月でした、ホンっト......ナメてましたわ。モチヴェイションとしてはま
た手狭な店 に移りたい
と思ってきた、金融機関は再チャレンジさせてくれないので八方塞がりなんだが........。まぁともかくこの状況ではやりたいコトの半分もできずスト
レスが溜まる日々だ。手伝ってくれるトモダチもいないから孤軍奮闘中です。
そして、このHPもはや10年を過ぎた。
10年ひと昔というがホントその通り。53のコラムもどんどん内容が濃くなり長くなりその間には所謂炎上もしたりした。HPアクセス
数は減っていないが増えてもいない(snsを合わせると微増か)。しかし現状況下でのHP更新はままならず新規顧客開拓も疎かになり、前店舗からの
顧客も
回数が減りどんどん離れていっている、利便が違うから仕方ない、わざわざで嫌口言われにくるハズねぇモンなぁ.....ははは。まぁそんなHPの10年
だ。僕の 立っている位置は変わらな
いのに季節だけが変わっていくカンジ。なぜこうなったかはご存知の通りで不可抗力ながらも僕の不徳の致すトコロで猛省している。後輩たちには恥ずかしくて
エラそうにできなくなっ
ちゃったし萎えそうにもなるがまだやりたいコトがあるので今は思案のしドコロだろう。ザマァミロ的意見も聞こえるがそんなコトいうヤツより踊り続
けてる方がよほどハッピーだと思ってる。ろっけんろうるっ。
愚痴はさておき、今回は久々なのでリハビリで書いている。
日々twitterで140字で書くコトになれると文章が淡白になっている?ので弊コラムの感覚を取り戻すべく
"書いては推敲また推敲" を練習している。実は書きたいテーマがひとつふたつある、それは次回にする。
HPは仮想店舗、と数年前から何度も言われ、挙げ句、フリーライドされちゃうので、今、HPを敢えて積極的に仮想店鋪化しようかと考えている、もっと果敢
にフリーライダーと闘ってやろう、と。フリーライドしてまで嫌口いわれたくないでしょ?
まさにこれは、 bar outlaws'71 on www. 4 virtual
insanity 計画である。となると、もう少しマメに発信しなくちゃいけないしもっ
と「濃くない」コラムっぽいコラムを書かないといけなくなるので、こうしてリハビリしている。
僕は最近、「職人」というのを疑うようになった。
若い頃観た鳶のオッサンや先輩バーテンダーや変人アーティストやプロスポーツの選手や陶芸家などの方々はホントに職人だったと思う。職に誇りと尊厳があ
り、ストイックだった。僕もそんな「職人」になるべく生きてきた(まだまだだが.....)。
でも僕が最近目にする「職人」はなんか怪しいとカンジるコト多い。
例えば、現場の資材を運搬するトラックの荷の積み方が結構見ていて怖いコトが増えた、実際荷崩れも多い。あと、クリエイターが補助金や助成金絡みの仕事を
キレイゴトいいながら率先してやり自分たちが社会を良くしているといってるのを聞くが、それは利権というのではないでしょうか?職人て権利とか言
わんでメシ食えなくてもいいカンジだったのにね。
日本の職人は素晴
らしいとみんな思っているだろうけど、こんな緩い時代に生きて「命懸けで仕事やる覚悟あるニンゲン」がどれほどいるのだろう?まぁデザイナーやSE諸君は
長時間労働しておられるがそれは職人だからなんだろうか?
今後
若いヒトたちは人口も減るし、僕の知る限り五輪でもう金メダル穫れるほど競技に人生捧げれる若いコはなかなかいない。この流れの速い時代にそんな時間って
とれないよね。
僕はもう、ひとつのコトに打ち込めるような社会ではなくなったんじゃないか、と最近思っている。勿論そんな中でも職人は間違いなくいる。でもね、昔ほどい
な い しこれからはもっと 減るんだろうと思うのだ。ソコは認めるしかない。
でも、ひょっとしたら我々人類はそうなるコトを求めて進化してきたんじゃないだろうか?
だって文明の進化はニンゲンが楽になるようにイノヴェイションしてきたの
だ、究極ニンゲンが労働しなくてもいい世界に向かってる。一部のカシコが生み出すテクノロジーを汎用化すればソコソコ生きていけちゃう世界。でもソコはス
ポーツもクリエイティヴもパッケージ化されてクオリティは向上するが何も響かない世界。そしてソコに職人などはもう必要ないのかも知れない。
僕らはこんな
virtual insanity な世界で生きているのだ。
少なくとも僕はできる限り職人でいたいとは思っている、例え旧臭いといわれようとも。だからといって他人に強要はしない。だってもう僕らはみな自由なんだ
から。秩序なきピースでいいじゃん(そもそも秩序って誰基準?)。
ただね、もう少し響くモンのだいじさだけは知って欲しいと切に願う。
virtual insanity な世界ですら猪子氏のようなリテラシーをもって楽しむためにもね。
安易に「空気」に依るムーヴメントに絆される前に何がだいじか考えてみてそれから自由に踊って「空気」を創ってくださいな。
アナタはココロを震わせて日々を生きていますか?
忌野清志郎の命日に
オーイエーベイベー!! 愛しあってるかい?
探しに行こう
探しまわろう
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