★2014.5.7     ressentiment
                            
  僕は ルサンチマンだ。
  僕はずっと弱者サイドで生きてきた。勿論自己決定なので自業自得だ。
  強者サイドに立ったコトは思い起こしてもほとんどない。中学の時の学年委員長とか雇われ店長とかバー テンダースクール の講師とか....う〜ん、ちゃうなぁ......エラそうにはしてますが...........。親であるコトを除けば開業してアルバイトのヒトたち数 名に対してのみが責任ある立場でいただけ だ。組織にほとんど属してこなかったし権威やら権力にはあまり縁がなかった。家庭的にも必ずしも恵まれた環境にいたワケでもなく早くから独りで自立して生 きてきたし、思春期に、社 会の歪みに、腐った仕組みに反発し、進学も拒み、夢を持ちそれだけをモチヴェイションに生きてきた。故に、この社会は歪み、一部のヒトのエゴが 弱者を搾取している、そうカンジて生きてきた。実際、この国はそういうコトに気づき、枠から外れたニンゲンに対して非常に冷酷な構造になってい る。だから 常に何 糞魂で生きるしかなかった。ルサンチマンでないと生きてこれなかったんだというのが正直なトコロだ。

 「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」そう鼠は言った。
   僕も言う「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」と。
(ボクハハルキストデハアリマセン)


  因みに、ルサンチマンとは、社会的な強者に対して弱者が抱く嫉妬や羨望からの怨恨や妬みや憤りや憎悪や非難の感情のコトで、ニーチェはこの感情が強者や社 会体制は「悪」、対して弱者である "私"が「善」という欺瞞的な正義感を与えるとし、人間精神を蝕む宿痾とした。
  キルケゴールが実存主義的なアプローチで見出したコトバで、その後晩年のニーチェは、凡庸なニンゲンの、貧しい人々のルサンチマンを利用し偽りの救済を売 り 込む史上最大の自己啓発運動だ、支配だ、としてキリスト教を批判し潔癖なほどそれを用いた。.....まぁ、ワーグナーとの関係性をみてもわかるがニー チェも結構ルサンチマンだったのだろうと僕は思っている。 鼠はルサンチマンではないか....

  僕も感情論の過ぎるルサンチマンは本質を見失いがちでよくないとは思うしニーチェのいうように利用されっちゃう。共産主義的モン(福島瑞穂的モン)とか反 原発運動的モンとかが そうだろうし、昨今 のメディアのつるし上げ的報道もそうかも知れない。
  ルサンチマンはある意味で変革のチカラとはなるが、間違うとネガティヴな社会を助長し進歩の妨げとなってしまう。


  今回は僕のルサンチマン的観点から今一度、弊コラム ★ 2013.4.27 imagine の最後の方で述べた、「ウ エカラシタの時代は終わった。シタカラウエの時代なのだ」を考えたい。僕がルサンチマンであるが故の気づきだ。
  コラムのキモは以下の部分だった (自文引用)。
『僕は今の社会は"ウエカラ"だが、 これから先は "シタからウエ"への能動性が重要ではないのかと考えている。
  例えば教育も。娘の参観にいっていつも気になるのは教師がウエカラ教えている構図、会社も同じだろ う、日本の年功序列旧共同体の名残り。これではイノベーションしない。 ベンチャーもでない。
  ウエカラの教育は、(旧)共同体適合者育成であり、セイシャイン育成であり、戦争動員の下地であり、旧いオジサンの阿呆の感染でしかない。政治もそうだ、 リーダーシップも必要だ が、それよりワークショップ的提案型でないと、リーダーやカリスマに依存して思考停止で牽引されるのも先ほどの教育の帰結に同じで危うい。

  僕は国も会社も教育も自分から利用していかないといけない時代だと思う。否、利用できる時代だ。
  昔のように受動的にウエカラを受け入れていてはブラックに利用されて死んでいくだけだ。
  つまり、社会的強者ほどもっとウエの強者に挑んでいかないといけないし社会貢献できない。そういった責任を自覚し弱者には再分配してほしい(希望)。
  弱者諸君も"ウエカラ"に負けずに、強者をウマく利用して「弱者でもハッピー」を模索しようではないか。だってさ、明治維新なるモンは、当時の社会的弱者 から のムーブメントだったのだから。(2013.4.27 弊コラムより抜粋)


  世界は有史来、ウエカラシタで進んできた。
  指導者やシャーマンや独裁者や師匠や先輩や社長やスポンサーやなんかがリーダーシップで先導してきたからこそ進化の流れができた。そしてそれは当然であ る。
  でもその弊害として、ミスリードする指導者や排外的な宗教やエラそうなオッサンも在る。これただのウエカラシタ。
  ホンっト、ウエカラをカンジるコト多い。


  日本は歴史の流れから観てもウエカラシタの「オカミ意識」が強い。
  古くは卑弥呼的シャーマンに始まり神道的八百万の神や儒教に依る仁義や礼儀からの武士の台頭で、特に秀吉時代から厳しい身分制度ができ、その後の長く続く 江戸時代で体制が固定したせいで「ウエに逆らえない(逆らわない)」精神構造ができてしまった。明治維新後も自由を手に入れたワケでもなくウエカ ラシタで結果戦争動員、戦後も日米安保のおかげで官僚主導型業界協調体制(官導体制)や戦前からの国民学校令に依る規格化教育(★2008.5.2 明日晴れるかな 参照)で高度成長を迎えたため「オカミ」 を正当化し民は思考停止してしまった。

  例えば、何でも国や行政がやってくれるだろう、税金払ってんだからやってもらって当然とか、イベントやら企画やらコンペやら催しやらで補助金や助成金だし てもらえばいい、そういうので街をよくしよう的発想なんかは、気づいてないかも知れないが「オカミ意識」に支配された思考停止状態でアノミーだ。 ル サンチマンオバサンやキレイゴトいうクリエイ ターに多い。
 「オカミ」はやってくれるのかも知れないが負債は次世代にまわっていく。これは今の世代のエゴでしかない。

  あと、昨今問題になっている部活なんかでの体罰もその弊害だろう。感動モンのスポ根ドラマでそれを美化し正当化し名誉のためならとダークサイドは観ないフ リしてきた。まあ、日本 のクラブ活動はウエ カラシタで技術向上してきたのも事実。特にココんトコはどつかれて育った校内暴力世代の指導者のスポ根精神で体罰は肯定されてきた。
  実は体罰の是非が大きな問題ではない。体罰でもいいコトだってあるだろうが、そんな気分の悪い犯罪まがいのコトせんでも「知恵」があるハズ。それをウエ カラ シタ がその発想を阻む、そういうトコこそ問題点なのだ。

  経済の成熟、ネット社会、グローバル社会の今日、そういう方法論だけが技術向上の手段でないコトは自明で、まさに今、その転換期が来ていると僕は思う。



  僕は弊コラムで、 『小さな社会大きな政府 はダメで 大きな社会  小さな政府、多文化主義ではなく文化多元主義、が今必要なのではないのか 可換可能なモノはいらん、可換不可能なモノを伝統として保守すべき、可換可能部 でグローバル化や和平交渉を 』とよくいっている。
  国や行政に頼らず地域コミュニティで、は小さな政府大きな社会だし、小さな政府にするために、僕らの下の少子化世代に負担をかけないためにも補助金や助成 金は必要最低限にして、行政なんかにモノを頼むな(官導体制からの脱却)、である。
  それと、もう学校のクラブ活動はやめてしまってクラブチームでスポーツする 方がいいと思う。
  なるべく民間でお金を集めてコミュニティやチームで回す。キレイゴトや理想ではなくプラグマティックに思考し知恵を絞り合えばいい。
  日本 の野球界とサッカー界の違いが顕著で良い例である。
  相撲界では貴乃花親方がそんなコト考えてるみたい。そもそもなんちゃら協会やらなんちゃら組合やらなんちゃら会って大概ウエカラ。所属してないヤツは虐げ る。「みんなハッピー」なんて組織は考えない。


  もう「オカミ」はいらない時代がきている。
  シタからウエへ、の時代だ。

  勿論、シタからウエへの能動性を体得するまで時間がかかるだろう、リテラシーもいるし思考力や決定力や何より自分でケツ拭く覚悟がいる。
 「オカミ」にいわ れたコ トをしとけば何かあっても「オカミ」が助けてくれるし、もしダメなコトあっても「オカミ」に文句いっとけばいい。逆に自分でやるとなるとリスクを背負わな いといけなくなる。文句もいえない。
  あと確かに、ミクロからマクロだと方向が観えず道に迷う可能性はある。
  マクロの視点を持った上でシタからウエ、ミクロからマクロへのアプローチが必要とな る。そこに指導者が必要というのもその通り。そこは矛盾覚悟でバランスよく進むしかない。
  僕は「トレードオフ」という方法論はあまり好きではないがプラグマティックにやるなら「トレードオフ」も仕方ない。ソフトな独裁者も.....かな。
  マクロを観た上でのミクロからマクロ。シタからウエへ。

  道州制やベーシックインカムなんかはそういうインセティヴになると僕は思っている。

 
  あと、ビットコインなんかも大きく世界を変えるので期待している、ビットコイン的世界通貨的モンとクラウドファウンディングや富の再分配的ベンチャー キャピタルがあれば、忌むべき糞銀行なんてもういらない。
  だからこういうインセティヴで既存の権力をもった国家や行政や企業なんかをシタからウエで壊していくの だ。

  まぁなんせこの調子じゃあ結構タイヘンだろうね。

  でもね、僕はこれこそ自由なんだと思うんだ。
  日本人は「オカミ」に思考停止にさせられていたから自由はいつも担保されているモン だと思い込んでいるんだけど、そんなの思い込みで世界中見渡してみてそんな国はほとんどない。だいたいどんな国でも闘って自由を手に入れるんだ。 国なんてなんもしてくれない。
  僕らは今、決して自由ではない。ましてや「オカミ」がやり繰りできなくなってるこの国で、もはや自由なんて洗脳に近い。国なんて貧してきたらどんどん締め 付けようとするモンだ。平和呆けドコロの騒ぎじゃない。

  なのでせっかくのチャンスだから自分で自由になろうよ。自由を手に入れよう。

  ...............っつうかさぁ.....クリエイターやアーティストってココじゃないの?
  なんで最近のクリエイターはウエカラサイドからのアプローチを好むんだろう?なんで権力サイドと何かしようとするんだろう?権力サイドから自由な表現でき る の? 「オカミ」が社会を良くす るの?
  歴史を、世界を観 て欲しいモンだ。
  カネにならんでもワークショップ的なトコからシタからウエへってできないから市民運動的なモンをクリエイティヴできなくなっちゃったんだね。



  もうひとつ、シタからウエで難しいのは、誰がシタで誰がウエかわからない場合が多々あるコトだ。
  前々々回弊コラムでも ふれた 乙武氏の飲食店入店拒否騒動が 良い例だ。
  身体にハンデを持った著名なヒトと口コミサイトで評価されて人気の飲食店、どっちが弱者なんだ?

  愚痴ながら、兎角飲食業はよく攻撃される。でも実際現実はシタもシタ、最下層、吹けば飛ぶ。昨今ではweb上で評価まで曝されて下手すると市中引き回し状 態、初 対面の方にタメ口で、アナタ肥え過ぎですよ、なんていわれたり(事実ですが).....そんな職業あんまないよね、アンタの働きもwebで評価してみま しょうか?っての。
  先日もカーシェアリングの法人会員に個人事業主でもなれるか?と問い合わせたら飲食業はダメなのだという、士業や特殊な業種なら一部OKだと、さすがに僕 もキ レた、どんだけ信用ないねんソレ何の根拠の差別やねん、って。金融機関にはいつもこういう扱いなので慣れてはいるが、そりゃぁルサンチマンにもなるわって カン ジでしょ?
  因みに、僕 はよく誤解されるが僕が議論し攻撃するのは強者に対してだけだ、勿論僕より弱者は少ないのでほとんどと闘うワケだけれど、僕は弱いものを叩くコト はない、ソコはよく誤解されるので一応言っておく。
  まぁ、そんなバーテンダーにくだらない悩み事ぶつけて叱られてるようじゃあ、ねぇ......間違いなくアナタの方が社会的地位はウエでしょう?恥ずかし くないのですか?アナタが思っている以上にアナタはシアワセです。なのになぜ弱者気取りで弱者の水商売相手にネガティヴに酒吞んで 文句垂れてるの でしょうか?
  酒場には情報がありそれを我々が司っているから確かにスゴくカンジるだろう、でも、ミミドシマなだけで我々はには何もない。実績もそこからの利益もない。 スゴく観えてもスゴくない。だから酒呑み諸君の粋な配慮に期待します。


  つまり、弱者はホントに弱者なのか?アナタはホントに弱者なのか?被害妄想ではないか?
  あと、アナタの信じているモンはホントにアナタサイドなのか?いろんな意味でウマくブラックに搾取または利用されていないか?

  仮に、弱者サイドだったとしても感情的なルサンチマンだと社会を滞らせるコトだってある。これはもはや強者サイドに近い。
  昨年の食品偽装の問題が次から次へと発覚した際もそうだしオボカタやサムラゴーチやらの騒動や憲法改正反対や反原発運動や調査捕鯨禁止やヘイトスピーチ問 題なんかもそうだが、誰が被害者で誰が加害者かなんてタチイチに依って変わってくる場合もあって一概に潔癖でいられない。今のマスメディアや政治 家は確かに酷すぎるが、だからといってメディアがあかん政治家があかんというのは短絡的すぎる。なぜならそう仕向けているのは自分たちなのだか ら。彼らは我々のカガミなのだから。
  ○○産○○とかブランドで買う味もわからない消費者、女研究者を応援し嘘つきだと知ると抹殺、同情話で音楽家を応援し嘘だと知ると抹殺、安全保障や経済と か関係なく潔癖に反対運動、クジラに愛着もないのに文化だから(ホンマに文化か?クジラいる?)と必死に保守、ヘイトスピーチだけで何ら前向きな 行動も起こさ ないヤ ツとそれにメクジラたてるだけのヤツ、みーんな僕らが生み出す「空気」の産物でしょう。こういう現実を観ない感情論的ルサンチマンでは変革はほど遠い。ル サンチマンなだけのシタからウエではダメなんだ。ルサンチマンでもそれをバネにシタからウエへ押し上げて未来を創っていかなきゃ意味はない。
  例えば、今の韓国はルサンチマンの域だしヘイトスピーチもその流れかも知れない。
  ルサンチマンな感情が攻撃的になる理由は不安だからなんだ。ソコを理解すれば前進への糸口が見つかるハズさ。


  ここで僕はひとつ提案したいと思う。

  僕は ★ 2013.4.27 imagine でも述べた通り、カナダ在住経験から今のこの国には限定的移民受け入れの議論がすぐにでも必要というスタンスだが、移民を受け入れようとするとこの単一民 族ファンタジーな国の民には もっと寛容さが必要となる、今のままでは相当厳しい、イライラしケンカになっちゃう。今のこの国の潔癖さではまだムリかも........野球なんかでも そうだけど「生え抜き」が地位があり移籍組の外様は虐げられる、海外のスポーツを観てみ、んなコトあんまないでしょう。こんな風に市民レベルでも ウエカラシタだからね、マイノリティをカンジるコトの少 ない環境だから仕方ない。
  不思議なのはシェアハウスはOKで移民はあかんっていうヒトがいるコト。 同じちゃうん? ヒトは2人集まるとモメるんだから。あ、シェアハウスはひょっとしてムーヴメントだからなの?

  僕はね、文化多元主義的観念から、猪子クンの「秩序なきピース」的観念からいうと、みんなね、自由なんだからヘイトスピーチでもなんでも言いたいコト言っ た方がいいと思うのよ、言いたいコト我慢したりせんでええし、日本人ばっかじゃなくなんねんから「空気」も読まんでええと思うし、言いたいコトい うのもガス抜きでしゃぁないんちゃうかなぁって思うんよ、でもね、せっかくおんなじトコで暮らすんやからケンカするのもイヤやしお互い認め合える トコ認め合って新しい環境つくってくしかないでしょ。ウエでもシタでもどうでもええでしょ。ヘイトスピーチなんて取り締まったりする方が逆効果や とも思うし。
  先日も CXのめちゃ×2イケてるッ!で、オボカタ女史のパロディで「阿呆方さん」というのをやろうとしたら 猛反対され中止したというのがあったが、僕はそれすらやらせりゃいいんじゃないかって思う。僕ら飲食業だって大概なコトいわれてるよ。サムラゴー チは茶化してもオボカタはあかんのはより弱者度が強いから?ホンマに弱者なんか?
  なんせ気分が悪くとも犯罪じゃない限りギリギリまでは許容した方がいいと僕は思う。言いたいコト言い合って認め合えるのが好ましい。潔癖なだけでは何も解 決しないから。
  その前にみんなもっと発信者にならないとね、この時代に於いて一方的受信者やフリーライダーは社 会悪に近くなる。個々でもっといろんな情報を発信していかないとウエに抗えない。ミクロでコミュニティを形成するには発信するコトがだいじにな る。言いたいコト言ってみなよ。情報はギヴアンドテイクなのです。コレ仁義ですな。
 

  さて、そこで、提案。
  そんな風に言いたい放題になっていくと「スルーする癖」「往なす癖」を身につけた方がいいと思う。
  イヤなコト言われたらスルー、でも同意できるコトあったらまた話する、そんな風を繰り返せばいい。排外的 排他的 2項対立は何も生まない、意見が合わなくて気分が悪い、そんな時はスルー する。
  じゃぁさ、アウトローで嫌口言われてもスルーしてハッピーに吞めるでしょ?弊店でよくあるのは店にも来ずSNSやHPをフリーライドしといて僕の毒に傷つ いて距離を置くヒト。じゃあもうスルーして読まんと店に来てくれ、ってカンジ。だってアンタに向けていってるワケじゃないんだから、もし仮に当て はまる としてもそれ はアンタの問題であってアウトローのせいじゃないでしょう?そんなヒトはSNSやHPをフォロすんのやめてください。アンタが勝手に何か得ようとしてフォ ロして んのに勝手に傷ついたからってヒトのせいにしないでください。弱者気取りのルサンチマンやめてアウトローで店主の毒をウマく往なして酒を吞みなさい。間違 いなく 帰りにハッピーな気 分で帰れるから。


  僕はカナダでいろいろイヤな思いもしたし差別も受けた。カナダは移民の国なのでみんなエゴが強く、というか主張しないと通じなかったりでガンガン言いたい コトいうしかない、そんな中でいちいちイヤなコトを気にしてたら生活してられない、カナダにいると寛容になるしかなく(許容だが)、ああそうです か、と適当に 受け流し往なさないとやってらんない、スルーするのだ。
  マスメディアの報道やらSNSやらでもそう。特にSNSで炎上しそうな時にいちいち反論なんかしなくていいし気にしないでサイアク全部ブロックしちゃえば いいけど、スルーすればいい。
  イヤだからといって情報をシャットアウトして生きるほど退屈なコトはないしその方がもっと危険だ。
  何でも自分と違うとカンジたら、排除でなくスルーするのだ。
  スルーする癖を身につけよう。



  昨年末、ネルソンマンデラが死んだ。
  彼には功罪があったと僕は思っている。指導者のカリスマではあったがさほど良い政治家ではなかった。
  でも、彼がもたらした功績は素晴らしい。ルサンチマンにならずシタからウエへの変革を実現したのだ。

  マンデラは投獄前も釈放後も一貫して、黒人も白人も互いを尊重し新しい国づくりのために力を合わせなければ、といった。マンデラは白人にも黒人に も武器を捨て憎しみをやめ投票で国を変えようと訴えた。子供たちには学校で勉学に励むように求めた。
  マンデラがそうしようと考えたのは、冷戦後 の世界の紛争の構図を正確に理解していた からではないか、と思う。
  冷戦後の世界は、イデオロギーではなく、宗教や文化的なエスニックアイデンティティによって、人々が殺し合うように なっている、民族紛争に終わりはない。90年代はじめ、ユーゴスラビアは解体し、アフリカ各地で内戦が深刻化、ルワンダでは民族少数派の大量虐殺 へと向かっていた。そんな最中、アパルトヘイトが撤廃された南アフリカでも、黒 人たちが復讐に燃える一方で、白人たちは、自分たちは許されないのではないかと怯えていた。自由になったマンデラは、白人も含め、南アフリカの人種、民族 集団の代表たちと徹底的に話し合う。その結果、1994年、黒人と白人の主要な政治勢力が権 力を分かち合う大連立政府が樹立され、マンデラは皆に信頼されて大統領に就任。みなの憎しみの暴発を押さえ込むコトに成功した。黒人と白人が共存する国が 実現した。自分を30年近くも劣悪な環境の牢獄に幽閉した白人達に対して復讐しなかったし他の黒人たちにもそう 呼びかけた。恨みを恨みで解決することよりも南アフリカ共和国という国を良くしていこうと尽力した。
  復讐すらスルーしてシタからウエへのアプローチをしたのである。



  僕はルサンチマンである。
  確かにルサンチマンは排他的傾向が強くよろしくない。なのでそのベクトルをシタからウエの社会へのチカラに変えよう。ウエカラシタの社会をぶっこわそう。 「ウエ」なんてウマく利用してやろうゼ。

  これからは、いろんな憶いが混在する社会になっていく、だから、イヤなコトはスルーしよう。
  潔癖になってもあまりいいコトない、落としドコロを模索する議論は必要だが、反論して喧嘩するのはほとんどの場合 win-win にならない、だっていろんな考えがあるんだから、正義なん てタチイチで違っちゃうんだから。
  だから、とりあえず、スルーしよう。
  そうするコトで、
「秩序がなくともピースは成り立つ peace can be realized even without order.」。共存共栄だ。


  思考し、寛容に包括し、イヤなコトはスルーし、ルサンチマンもシタからウエへプレッシャーへ変えていく。
  それってタイヘンだが、強者や国家や宗教やら企業やら組織やらに思考停止にさせられ 利 用されブラックにやられて知らず知らず擦り減る人生よりマシなんだ。


  僕らはもっともっと自由でハッピーになれるのである。
  一緒に前に進もう。








自由であるというのは
単に己の鎖を脱ぎ捨てるだけではなく
他人の自由を尊重し
向上させるような生き方をすることである
           ネルソン・マンデラ















  今年の春も数名の同志がアウトローを去った
  彼らのためにも一層精進するしかない
  みなさん いつもありがとうございます



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2014.5.9/14 修正